kotomonasha

二歩目に文章を書いてみる。

14、好調にいると自分の行動を手放しそうになる。

 

 まったく動けないときは確かにあった。自分だけでは動き出すことはできない。どんなにひとに優しくされても、求人のチラシを渡されても、楽しいことを提案されても、布団から出ることはできない。なんでこういうことを書いているのかと言うと、身動きが出来ないときのことを今の私は忘れかけているからだ。

 どのようにしてひきこもりにむかっていったのかという心の動きの輪郭は憶えていて、あれをしたら私は駄目になるというのを回避していくことはできる。そうしてどうにか地面と並行にならないように生活していくと、一日の大半を布団の中で過ごしていたときの記憶が薄れるらしい。すると、なんであんなことをしていたのか、ただただ疑問に思う。ののしっているのではまったくない。布団を被るしかしない自分をかばいたくなる。だってそれしかできなかったのだ。直立生活ができていたのなら、そうしているし、ひとの目を好きで過剰に気にするやつなんていない。あの期間は長すぎるように思うが、あの時間を経てようやく文章が書けるのだ。

 布団の中とはいえ、何度も躓いてひっくり返って、現状を咀嚼して、諦めがつかないと、次の行動が出てこない。ちゃんと考えればいいのか、というとそうでもない。その時が来れば頼まれなくても考え出す。下手に考えこめば、これもひとつの段階だが、負の深みにはまってしまう。もちろんネガティブな思考も意味がないやと諦めがつくまでやったら自らやめようと試みることが出来るという良いこともある。もしかするとネガティブ思考と仲良くならないと、穏やかに考えることも出来ないのかもしれない。

 

 単純化して書いているのもあって、ついでに最短ルートを求めてしまうが、そんなものは期待しない方がいい。これまでにあったことを書き留めている。自分にあったことはそれ以外ない。一般化したとして、自分が経験したことは変わらず、ただただ私がしたことなのだ。

 自分の行動に型があると思っているとそのうち閉じこもってしまう。数あるひとびとの行動のひとつにすぎないのは事実だ。自分が特別だと思えというのではない。特別じゃない。誰も気にしていない。そのことを見つめるのはすきなだけやればいい。

 つまりは自分を自分でちゃんと持てということだ。何かしら型があって、自分の行動はそこにあてはまるのかとか、一般化しようとするとか、自分のものではないと思っているとつまらないし苦しくなる。その苦しさで閉じこもる。自分をどこかに預けようとしているそのときには、苦しさに気づかないことが多い。感じ方としては、どうしたらいいのかわからず困っている、自分をとりあえずけなしてみている、ひとの意思に沿うことを嫌がる、まったく感じていないときはひとの雰囲気を一生懸命に見ている。そんな苦しさだ。

 面白いことに、自分が手元にないことを自覚して、寝てばかりの生活から出てきて文章を書けるようになったのに、調子が良くなるとまた放そうとする。両手を広げて空を仰ぐのはまだ早い。