kotomonasha

二歩目に文章を書いてみる。

45.冬昼行性の仮説

 

 あたたかくなると、夜中に活動したくなるタイプの人間かもしれない。

 記録をしているノートを見ると、十二月の初めごろから、今は三月の半ば、その間遅くとも二時には寝ていて、昼に起きているという生活リズムであった。苦痛はなく、早朝が気分がいいのはもちろん、苦手意識のあった昼の時間帯は、いちど行動を変えてみたり、外出したりすることで、うまく時間を使えている日が増えている。

 最近あたたかくなった。そんなに雪が降る地域ではないので、道路わきに積まれた雪は溶けて小さくなりしょぼくれているし、駐車場の雪はほとんど解けた。水道凍結指標を見る必要もないと体感で分かるくらいにはあたたかい。三月初めから、なんとなく感覚が違うと思いながら過ごしていて、体調不良を差し置いても、やっぱり、リズムは気候に左右されるんじゃないだろうか。

 ここ二、三日のことを振り返って文章を書き始めたのだが、寝る時間が後ろにずれていっている。まず、朝起きる気がしなくて、目覚めたまま布団の中にいる時間が増えているので、それはまた別の解決すべき問題なのだが、集中して作業をしていると、感覚が鈍くなって時計を確認したら午前二時を過ぎていた。朝七時には朝食を食べ終えていると良い一日を過ごせる、という考えが、この冬の生活でしみついたように思う。だけど、午前二時に起きて活動し始めるのが充実した一日を過ごすのに適している時期もあるだろう。観念も習慣化するので、リズムが変わるたびにこうして言い聞かせ、軌道を調整していくことにしよう。

 実際、季節によって生活リズムは変化するのか、一月後か一年後か、振り返るのを楽しみにしている。

44.二歩目の文章について

 

 このブログは、いかにして、一日の大半を地面と体を並行に保って生活するタイプのひきこもりから、頭を持ち上げて直立生活を再開するのか。その過程を記録、また文章にして解説したいがために始めたものだ。同時に、直立生活を継続するための手だてにもなっている。

 直立生活がある程度当たり前になり、ここに至るまでに私にはどんな変化があったのか、何をしたのか、記録しなければ忘れてしまうということを最近よく考える。もしまた床にこめかみを付けて一日を過ごすようになったとして、そこから直立生活へスムーズに移行できるのか、やはり同じだけ時間をかけるのか。これまでの文章はより感覚的、個人的である。これからも個人的な過程しか書かないつもりだが、もっと説明的に、順を追ってステップ1、ステップ2のように、分かりやすく項目ごとにまとめるように書きたい。これまでの吐き出しの一歩外に出たような文章と大差ないかもしれないし、初めから項目に分けるわけではないが、私が後からでもそのまままとめられるように意識して書く文章もぽつぽつ書いていきたい。

 

 意図していなかったが、一月なのでこのブログの抱負、というわけで、以下、まとめる用の記事、その中のひとつです。

 二歩目に文章を書いてみる。と題してブログを書いたが、ブログを書くという行為自体は三歩目以降のことだ。二歩目の文章とは何を指すのかというと、紙にボールペンでただ文字を書くこと。

 

 二歩目の文章を書くとき。B5またはA4のコピー用紙にボールペンで書く。チラシの裏でもいい。真っ白な紙面をすべて埋める。最初からすべて埋め尽くさないといけないと意気込む必要はなく、まずは紙面の一部に文字を置くことをやってみる。右上の端っこから左へ、というような決まりはない。どこから文章を始めても構わない。私は端っこから始めて、一行の終わりを紙の向こうは時までもっていかず中途半端なところで行を折り返したりもよくした。つまりはすきなように、手が動く範囲で行を変えるとか、そんなふうでいい。縦書きでも横書きでもその時の気分で書く。中途半端なところから始めたのであれば、余白ができるだろうから、今書いているスペースがなくなったら、また余白に相対して縦書きでも横書きでも、好きな場所から書き始める。新聞みたいに、文字で紙面が区切られていてあとから見ると面白い。そんなものを面白がる気分でないなら、ただ端から端まで四角く埋めていく。

 えんぴつよりボールペンがいい。手でこすれて文字が消えかかるということもないし、インクだと消しゴムで消えない。文字を消す必要はない。あとから読む必要もないが。インクだと余計な文字を書こうとしないという点もいい。パソコンで書くとつい必要のない文章を惰性で足してしまう。まっさらを埋めることで、おそらく私は完成するということを体験した。始めて、終える。これをちゃんとやることって難しいんじゃないだろうか。文章の終わりも難しい。しかし、どうやったら終わりなのかではなくて、ただ始めて終える、という行為を実行するだけだと、一日の大半を布団に寝転がっていたところから、直立生活をまた習慣化できた今は思う。

 私がボールペンを選ぶのはその筆先が紙に沈む感覚が好きだからだ。消そうにもできないボールペンで、紙面にインクを刻みつける。書き終えて、紙に余白があってもいい。次の紙に移るならそれでいい。成功体験と言い換えることもできるかもしれないが、ここは完成体験と言いたい。始めて終えるということは、どんなに小さなことでも、時間と労力が必要だ。忍耐力、気力が足りてないというときには最小限の完成を繰り返し実行すると、ウォーミングアップになって良いんじゃないか。体を直立に起こして数時間で背中が痛くなると横になる、という慣らしの期間に私自身並行してやっていたことだ。それは今現在のうだうだしながらもとりあえずやる、という重要な行動の土台となっていることは間違いない。

43.年末って言葉に負けるよね

 

 年末、これからやろうとしていることは、うまくいくのか不安になる。準備しているものはぽんこつで、おもっているようにはうまくいかないのでは?と軌道修正も考えるが、自分の中には地道な蓄積が足りないので、ひらめきのレパートリーは数少ない。だめかもしれないと振り返り、いやこれでやっていく、と持ち直すのを毎日繰り返す。手を動かしていないのも要因。ひとつ決めて、それをひたすらこなすなら、ずっと手を動かしていられるので、精神はある程度安定する。じぶんがやっていることが腑に落とせているのであれば。問題は盲目的になることで、しかし同じ作業を続けているとおのずと変化を欲するので、改善を視野に入れることは定期的にできる。

 現在は、改善策を見つけられていない状態だ。ちょこちょこと未解決の課題がある。順調にできる作業も、ひと月単位で考えているので、月末はひと段落、リセットされることになる。停滞を解消することも、リセットされた状態から再開することも、とても難しい。

 なんとなく手につかなくて、でも十五分だけ、三十分だけ、手を動かしてはやめている。手を動かすことはできるが、金にならない事なので、罪悪感がある。布団をかぶっていても、スマホで映画は見れるのだ。

 直立生活に何の疑問も持たずに生活して半年ほどになるが、この一週間は背中を地面につけたいと思うときが何度かあった。

 だるんとした感覚から抜け出すには何をしたらいいのか考えて真っ先に浮かぶのは、掃除だ。年末といえば大掃除。どうしようか大掃除、今年は別にいいかな、定期的にちゃんと掃除をしているわけではないのだけど。平たく言えば億劫で、でも頭の隅に大掃除という言葉が居座っている。

 掃除をすればいいのだよ。雑巾濡らさなくてもいい。掃除機かけることもない。大掃除でなくて、掃除をしたらいいよ。

 頭に引っかかっている課題は、大掃除、以外にもうひとつ、この文章を書くことだった。しばらく書いていなかった。書かずとも体調は別のところで調整できていた。それはいいが、年も終わるし何か書いとこうか?数日前から別に書かなくてもいいじゃない、と頭に居座っていた。書いたらよかったらしい。結局書くのだ。

 やりたくないかなやんなくていいや。と頭の中に居続けるものは、結局やることになるのだから、済ませてしまえばいいことなのかな。やりたい、やると決めていることですら、ずっとそこに置いていたら気になって気が散って仕方がない。やるべき?やんなくていい?やらなくていいやいいよね……なんてあいまいで主張のあるものがそこにあったら、頭もかったるくなるというものだろう。やらないと決めたことはしつこくみえるとこに居座ったりしない。

 現状のだるさを解消するために、これを書いたら私は掃除をする。それから、この先だるんだるんの種を一つ減らして進んでいくために、名づけをしないといけない。名前、場所、箱というのはそれをとっかかりにして物ごとを進めていける。私は名前を付けるが苦手で、と言い訳をして拠り所を作るのを先延ばしにしていたがそろそろ決めねば、また同じ要因の停滞に見舞われることになる。

42.ストレスのない文章

 

 あったことを記すのみの日記ほど面白い。井上松五郎の日記を引用している文章を読んでそう思った。

 たとえばネット記事で、視点がどこにかたよっているのか、というのを考えるのが癖になっている。商品を売るための文章。読み手に寄り添っているふるまいをする文章。社会の見方を誘導するような文章。

 誰と会った、と名前のみ並べて何を話したかは書いておらず、色々話した、とだけ記されている日記をなぜ面白く思ったのか。書き手についてちょっとでもその環境や人柄など、情報を知っていて興味があるからという点もはずせないが、受け取り方を誘導されることがないという点を私は注目することにしたのだった。

 ともすれば読まれることを想定していない文章。こちらが勝手に読んでいるだけである。私は手紙を書くのがへたくそだ。あれもこれもとまとまらないのは良いが、良い手紙を書こうとかっこつけて、うすら寒い装飾をいれてしまう。至って真面目に書く。最善を尽くす。しかし、ひとりよがりが透けて見える、つまらないどころか不快な手紙しか今のところはかけていない。自分が書いたものを自分がもらうわけではないので、実際のところは分からないが、書いた後の手ごたえはいつもそんな感じで失敗したなと思う。次はちょっとましなのを書けるかもしれないという気になっている。

 ツイッターの短い文章でも装飾がこれでもかとちりばめられる。それから、これまたネットで歴史、まあ私が読もうと思うのはおもに新選組あたりなのだが、歴史上の人物について改めて紹介したりする記事で、創作なのか、伝聞なのか、伝聞をもとにした推測なのか、あいまいになっていると不快だ。ネット記事じゃなくても小説だともうすべて混ざるので言ってられないが、ある種のストレスは蓄積される。つまり、どこになにが偏っているのか、判断しようとして、はっきり仕分けすることは不可能なので、結局疲れる。時代をさかのぼって、伝聞すらも遺構すらも残っていない過去のことを思うと、そんなこと気にしてどうすると思うが、目くじら立てなくてもある程度確認はしたいものなのだ。その点、まるっきりフィクションである小説はこれまたストレスなく読める。文字をただ追っていけばいいだけだ。ただ享受する。 と書いたが、モーリヤック著作集のうちの一遍の冒頭をちょろっと読んだだけでそんなことを思っただけだ。フィクションでも、登場人物の会話が続くと別のところで、もしくは重なる点もすこしあるとは思うのだが、しんどくなったことがある。

 私も日記を記している。起床就寝時間と、その日に起きた特に書いておこうと思ったこと、頭の整理のために考えていることや次の課題など、外に置いておきたいこと。メモに近い。

 この文章も、だらだらと長く続けているだけで、日記メモとそう変わらない。考えたことが、外に出したくて長い文章になりそうなら、ここに書いている。ただ、ちょっとだけ装飾はあり。つい飾りたくなるでしょう。しかし、飾るよりも身から出た言葉を残すようにしている。使い古されたテンプレートになっている言い回しは避けたいが、自分の中に言葉が無ければありきたりにはなるだろう。自分の言葉を探すときは身体の感覚に意識を向けることが多いかもしれない。そこ以外から私は構成されることは、気づいていないだけかもしれないが、今までないように思う。

 二つのタイプの文章を比較するという気づきがあった。文章はいろんなところで読んだ方が楽しい。ネット記事、ツイッター、ブログ、新聞、古本、チラシ、カフェで読んだり、図書館で読んだり。人の文章を読んで私は学んでいる。文字を追うのと同じくらい、文章を作るのってとても楽しい。

41.人と会って停滞するとき

 

 人と会うと、つい昨日までハッピーだった心持ちが鳴りを潜める。そこにいるはずなのに何も言わなくなる。

 自分の中だけで完結していた考えをひとに放した途端大したものではないことを教えられる。そんなことを誇らしげに頭の中でこねくり回していたのか、とある意味で解放され、虚無感を味わう。その衝撃はひとと共有することはできない。

 話はそれるので一文だけ書いて素の道に戻るが、死も虚無感とするなら、それ自体が共有できない感覚なのかもしれない。

 まさに客観的視点を取り入れるという事、取り入れるというよりも打撃的というか、直接的なことだが、私はその機会をありがたく思う。ずっととどまっていたところから、足を踏み出すことが出来るのだ。

 人と会ったら疲れる、元気がなくなる。描いていた明るい未来が陰る、というのは閉め切っていた窓を開けて、風通しをしたからだ。空気は動いてきもちいい。しかし太陽は眩しいし、虫は入ってきたし、風が通り過ぎて逆に寒くなってきた。

 衝撃や虚無感、風の通し過ぎで、かったるくなって落ち込んだ気でいてまた自分はこんなになって、と責めたくなったり焦っているかもしれないが、腰をあげて、足を延ばせばいいし、足を踏み出して、足の置いている位置を30cmほど変えたらいい。

40.切り替え

 

 月に一度はぼーっとして何も手につかない日がある。2,3日だとしてもそれが一週間のように思えたり、一日だけどと思っていたら一週間たっていたなんてこともある。私は日付の感覚がぼけているのでわざわざ書くことでもない点かもしれない。

 完全に自堕落な生活に移行する前に、自分が何をするのかを確認することにしている。まずは、私は何をするのか、と問う。答えは返ってこなくて良い。すべきか、とは問わない。なにをするのか、という言葉を投げかける。

 しばらくして、その言葉が馴染んで準備が整ったら、問いの答えを用意する。する必要があること、例えば床の拭き掃除、ゴミ捨て、洗濯、散髪。私の場合、掃除はとっつきやすいものの一つで、軽く動きが止まりそうになった時なども、掃除をして流れを作る。 または、やりたいことがわかっていれば流れは作りやすい。ではなぜ今それをしていないのか、確認し、例として昨日の私はやりたいことがたくさんあって、でも何も手を付けない。なぜかと問うと、手を動かしていないからだという答え。こんなものでも答えになるのだ。少しずつ、手を動かすのに慣れさせていけばそれでいい。

 定期的にこれを繰り返すことになると、同じことに飽きてきて、まあ今は良いかな、とぼーっとする機関が伸びる。ここ三か月はひと月に一回、一週間ほどに抑えられているが、四か月目はひと月ぼーっとしていることになるかもしれない。後から考えてみれば、一週間で済んでいるとおもっていたものは、実は半月ぼさっとしている可能性はある。なんならこれまでずっと、ぼさっと生きている。なので同じことを繰り返しても構わないかもしれない。自分自身が焦っている、もしくは見て明らかに怠惰な時間を減らしたいがどうもうまくいかないやり方が分からないのであれば、すこしだけ、前にしたこととは変化をつけたい。そうしたら、前に進んでいきそうじゃないか。別に変らなくても、少なくとも繰り返すごとに切り替えが甘くなっていくのは避けられるだろう。

39.計画してしまうひとへ

 

夜は寝ないとダメなんでしょうね。

早朝は好きだ。三時、もしかしたら二時、から四時くらいに起きると気持ちがいい。五時半とか六時だと残念だなと思って布団から出ないことがある。どうしても眠れずようやく二時に寝付いて、時計を見た時は寝ぼけていたからおそらく五時何分かだったろうけど、四時の気持ちだったので、起きて海へ行った。その日は昼寝をした。

 早朝に起きてきもちのいい一日を送った次の日は昼過ぎに起きた。朝方夜型とリズムがあるらしいが、私は早朝が好きな夜型なのだろうか。でも、昼間に起きても全然うれしくない。昼の時間帯が苦手だし、起きて動き出すまで気分が良くないと時間がかかるので、昼に起きたら十五時頃調子が出てくるとして、あんまり好きな時間帯ではない。昼に起きたから次の早朝まで待てばいいが、その頃には目も疲れてくる。日が昇って温かくなってきた頃に布団を敷くのも面白くない。座布団に寝ればいいが。

 そうやってこの時間は好き、苦手、と意識して、つまりは気分と行動を計画してうまい時間の使い方が出来なくなっている。行き当たりばったり、その場で決めるというのが心地いいのだが、どうしても計画に雁字搦めになり、その計画は今度にしようと結論付けるのがお決まりになってしまっている。そういうものをまっさらにして、今何をするのか、と問わないといけない。問うているときには決めているということで、問いかける態勢の整え方を習得したい。

 眠ければ寝る。眠れないなら眠らない。リズムが狂ったとして、どうやって元に戻すとか、このリズムで明日いつ何をするとか、計画は脅迫になっている。どうにかして己が脅迫文と認識してしまう文面をやわらかく受け止めたい。頭をまっさらにすることを試みればよいと想像する。しかし、うまくいった例は思い出せない。一旦保留、といいつつ計画をなしにして、次に体が赴くときにやりましょうと解散する。二日後にすんなり済ませてしまったり、一週間後、ひと月後、やりたかったことをできたりする。計画と言う輪郭が薄れたら良いのかな。どうしたら薄まるのか、とりあえず距離を置くということくらいしか今は知らない。 理想は、計画したその直前に足が止まるのを切り替えて、結果的に予定通りに行動すること。ほど遠い。おそらくとても体力を消費する。甘ちゃんなので私にはそんな忍耐力も何もないと言ってしまう。計画を目前にして立ち止まっているとき、私はひとのめを気にしているのと同じ気配がある。特に最近は気にする人の目などないはずで、私がやるだけなのだが、計画通り行動しないといけない、また目前で行動しないのか、ともたついているとき、立ち止まっている理由に人の目があるように思えてならない。私は計画の中にある、人に目を向けられるタイミングを過剰に心配しているのか、直前で立ち止まりまた今回も計画をなしにすることで人にどう思われるかその後関わる人にどういう影響があるか、と考えて恐れているのか。人の目を気にしなければ、計画は別の時に持ち越してもいいし、ただ私が行動してもいい。人の目を気にしているのと、自分の理想と実際の自分を比べることは似ている動きなのか、と書きながら思った。

 先延ばしは良くないことは分かっている。ただでさえ時間がかかるのだ。計画が先延ばしにつながることも分かる。想定した良いタイミングというのは決してやってこない。

 わかっていて、毎回そこにはまって動けなくなる。思考のずべりが悪いのだろうか。私はぼうっとしているので、いちいち具体的に気を引き締めないといけない。

 これを書いている今も計画を前にどうしようか、明日にしてしまおうか、リズムを立て直すにはどうしたらいいか、などともだもだしている。文章を書くことで気がまぎれたりパッと行動しないする気にならないかな。また太陽が出てから寝るのかな。ちょっと行動を始めるには遅い五時になってしまったな。

 先のことを想定して振出しに戻る、を繰り返している、いい加減私は学んでほしい。あと何回繰り返せば体が覚えるだろうか。ぼけっとしていては繰り返しても意味のないことだろうか。こうやってたまに言葉にはしている。つらつらと思考を垂れ流すより、ある程度まとめる目的をもって書いた方が、あとで見返すとしたら役に立つだろうし、文章を書く時の頭の使い方としてもいいのだろう。言葉にするというのは難しい。

 たまに頭の中だけでしゃべるのだが、ひととおりしゃべったあと、思い立ってボイスレコーダーに向かって実際にしゃべってみたら全然言葉が出て来なくて驚いた。あまりにもたどたどしかった。言葉というのはそれだけで伝える働きがあるのだ。伝えることは難しかった。うめき声とか鼻歌とかは難しくない。頭の中でしゃべるのは自分相手だから簡単なのか、実は形になっていないmのなのか。

臨機応変、柔軟さ、即興。計画を前にしてそれらをできるようになりたい。とある行き当たりばったりでは気持ちよく行動できるのだ。計画を前にして息が浅くなる。過剰に想定して雁字搦めになる。

 今回はすぐうごきだせばいいのにと思いながら、また今度にしようかなと先のことを想定しようとし始めて、居心地悪くてだらだらと文章を書いてごまかしている。結論は出さないといけない。どこに決定するのか自分で決着をつけないといけない。

 計画をまた別の機会にするときも、気持ちよくそれを示さないとうまくいかない。後ろめたさとか敗北感とかはなしの方向で、前向きに。

 べつのときに。今はとりあえず今やることをしよう。しばらく前から想定していたことを今やるとは限らない。むしろまれなことだから、勘違いしていたようなら、ま、そういうことだから、覚えておいてくださいね。