kotomonasha

二歩目に文章を書いてみる。

8,ゆっくりやろう、の裏腹

 

 変化できないことを恐れている。自分を簡単に変えられると思っていないが現状の変化を望んでいる。このまま何もしないで何も変わらないのじゃないかと不安だ。

 ゆっくりやろうとしつこく言い聞かせているのは、できもしないのに焦りだけ空回りして無力感に打ちのめされるのを回避したいからだ。はじめから後退することを想定している。ひきこもりしているくらいだから当たり前だ。私は簡単に逆戻りできる。頭から布団を被ってじっとするだけで現実逃避するひきこもりに戻る。今も同じようだが、違う。相変わらず現実逃避しているが、少しは逃避に向き合っている。

 焦っては逆効果だが、ある程度の強引さ、コントロールのできない状況が力になるのは確かだ。しかし、その不測の事態に身の赴くままに対応するのが苦手。

 食事の問題。ひとに作ってもらっているのは変わらないのに、私はどうにかして避けたがっている。腹がすいても食欲はない。空腹だと体を動かすのに支障が出るのでちゃんと食べる方がいい。家事を全くしない事やはたらかないことへの罪悪感とも通じる。ならば家事をするという解決策はあるが、はたらくことと同じように私はそれをしない。

 私はここを出ていくしかない。快適なようで私の居場所ではない。図々しく間借りしているだけだ。こう確認しても、いますぐはたらこうとはならない。歩みが小さく遅いとはいえ、私をののしりたくなる。

 焦ってもむしろできない、これは私が怠惰のもっともらしい言い訳を得たということなんじゃないか。

 焦っているとは体が縮こまっていること。縮こまっているときは逃避をしたがる。なのでゆっくりやろうと言って逃避を容認する。それが一時的なもので、それで進めるならいい。

 どうやって文章を書き始められたのか? なぜ内面の書き出しがブログという形になったのか? 閉じこもる予感がある今、もう一度確認する。

 逃避をしつつも作用を起こす。それはいちど大げさに言えば絶望したときに起こる。いまだに作用を起こすことに恐怖がある。始めたばかりだから当たり前だ。しかし、絶えず壊れてそこから作り出して、社会のひとは成り立っているはずだ。待ってはくれない。私は途中でそれを拒んだ。慣れる前に拒んでしまって、今からまたスタート地点に立とうとしている。

 殻にこもっていたい。文章は殻にこもりつつ書ける。自分の意思を伝えるのはそうもいかない。はたらくなら殻に隠れられない。殻の中で壊れない程度のヒビを作って自分をほめて喜んでいる状態なのだ。こわいこわい。つらい逃げたい。選択は、強力で執拗な引力により逃げることにひっぱられる。やるという選択を選べるときはこんな粘着質な感覚はない。葛藤があるからそこに引っ張られるような感じがあるんだ。

 自分の予期していないことに反応する必要があるからこそ、ゆっくりやろうという言葉が肥大してしまってはいけない。あくまで偏りをなくすために、盲目的に自分を奮い立たせてしまうときに使う。すべてのことに執拗に使ったら、それもまた偏りを生む。真ん中で良いのかは知らないが、いまのところ偏りがひどくなるとたいていは負の選択にひっぱられる。

 自分にどうしようもできないこともどんと来い、という構えがいる。真ん中でじっと見据える。身をすくめている状態から脱却するにはどうしたらいいのか。

 

 あるとき考えていて、営業力がない、という言葉がやけにしっくりきた。人見知りとかコミュニケーションが苦手というのと同じではある。

 自ら売り出していかないと駄目だということを今まで理解できていなかったのだ。それが最初からできないからひとについて学ぶのだろうけど、最小規模で失敗が許されている状況でも、私は何をしなければならないのか、何が許されているのか理解していなかった。そんなことは理解しなくてもふつうのひとは自分で当たって砕けて身につけるのだろう。知らないことを怖がる、私は臆病な甘ちゃんだ。でも、今やっとほんの少しだけ分かった。私は営業ができない。

 自らの行動だけに信頼を置くことができるときもあった。あの猛進できる力はどこから生み出したのだろう。見なくてもいい周囲を見ていなかった時期だろうか。

 自分以外に対処する者がいないという意識が欠如している。しかしこの認識も自分の無力感と合わさると悪い効果を生み、私は幸運なことに家族という受け止めてくれるクッションが存在するのでそこに身を投げ出してしまう。逃げ場があると思っているのだ。いつまでもいられる自分の家では決してないのに、ずっといていいものだと思ってしまう。現にそうして今ひきこもりだ。あまりにもひとにゆだねすぎている。