kotomonasha

二歩目に文章を書いてみる。

12,思うことと行動の切り離し

 

 家族を他人として関われたらいいのに、と何度か考えたことはある。学校にちゃんと通っていたひきこもりになるなんて思っていなかった時期にもそう思った。機械的に慣習的に「ありがとう」と言うことに疑問を持ったとき、私はなんの心の動きもないのに「ありがとう」と言うのをやめた。その心の動きを見つけ出せばよかったのかもしれないし、形だけでもなぞればその場を丸く収めたり心地よくひとと関係を持てたりするので、本当は無感動で周りに倣って投げ出す言動も役割を持っているからまったくそれをやめるというのは失敗だったかもしれない。実際、それが私の行動を狭めた。意識的に暗黙の了解や形式的なことを忌避するあまり、それを避けることが目的になってしまう。ならば自分はどうするのかということには至らず、慣習を拒否して終わる。次にはつながらない。

 なぜかお金を出して世話までしてくれて私自身もそれを甘んじて受け入れている状況、これに不安を覚えた。こんなにしてもらっているのに、私は何もできないし遊んで暮らしている。今感じていることにひっぱっられてしまっているが、おおむねこんなようなことをこれまでに何度か思っていた。思うだけで何かすることはない。たぶん意識せずにそうしようと行動していたことはあった。家事は手伝いパジャマで部屋を出ず、会話においても見ず知らずの人を相手にするように声を届けることを気を付けていた。

 家族でいることの恩恵は贅沢なほどに受けている。しかし怠け者の私にはじゅうぶんすぎるのだ。家族でいるということで私自身を他者に溶かすことを許している。誰かの一部、責任の譲渡または放棄。そうすることを許されていると勘違いする。

 自分に責任が無いと楽だ。誰かの許可を切望して、失敗を恐れて、ひとりになることに憧れる、これはすべて自分自身をだれかに任せようとしているからではないか。贅沢であるとか、恵まれていることをいちど断らざるを得ないのは、他者に評価をゆだねているからだ。

 結局自分自身がやることしか、道を作るものはない。他者は存在するが、自分の求める方向へ連れていってくれる者はいない。ひとがすることが、自分のするべきことの代わりとなっていることがあるが、自分がしたことではない。ひとにしてもらうこともできるし、自分でやることもできる。なんとあたりまえのことを書いているのか。しかし、自覚することも難しいのだ。自分しかやる者はいないと思った方がいいのかもしれないが、自分がもたもたしている間に代わりにやってくれる人がいたらかなりへこむから、代わりにやってもらうのも自分でやるのもどっちにしろ自分の選んだことだと受け止めるくらいがいい。

 自らひとに明け渡していた、ともすれば押し付けていた自分を手元に引き寄せれば、ありがたい家族を他人として尊重し関わることもできるだろう。そうなるまでが大変そうだ。

 家族に対してちゃんと向き合っていないから、他者だったらいいのにと乱暴なことを考える。他人に対してはまだましな対応をするので、解決にはつながるだろう。思っても、実行するまで時間がかかる。何をためらっているのかというと、自分にはできない、と思っているのだ。

 できなくてもやるしかねーだろ、と背中を殴って元気になるのなら結構。もうじゅうぶん元気で準備が出来ているということだ。しかし、準備が出来ていないのに、装いだけして背中を殴っても早く躓くだけという可能性が高い。それでも動き出して、徐々に調子を整えていけるならそんなすばらしいことはないが、どう転ぶのかは運しだいじゃないかと思う。いちど賭けに失敗した直後だから及び腰になっているのは否めないが、挑戦するにしてももう少しあとにしたいので、私はここでは無理して自分を奮い立てても結果にはあまりつながらない説を推す。力が無いと、準備不足で補いながら目標に近づいていくのは難しい。いままさに立ち止まって態勢を整えようとしてひきこもっているのだから、やっぱりこのやり方がやりやすいだろう。少なくともいまはまだ、奮い立たせば何でもできる人間ではない。

 ではどうするのかというと、できないが、自分はやってみる。ただじっと自分の不安と先に待っている失敗の予測を見据えて、しかし私がやる、と行動するのだ。穏やかだが、背中を殴るのと変わらないかもしれない。しかし、自分ではたらきかけないと、結局何にもならない。

 背中を殴るというのは、自分自身を言葉で奮い立たせることの比喩だ。それくらい勢いをもって鼓舞する。もちろん実際背中や肩を軽く殴ってみるのもいい。頭を殴るのはやめよう。額やこめかみ周りの筋肉を動かすたびに痛みと違和感がともなって気が散ってしまう。

 言葉で鼓舞する、騙すよりも、状況を見据えるほうが、どんなにだめな時期でも効果が出ることじゃないだろうか。あくまで、見つめるだけで、お前はこんなこともできないするつもりもないやっても失敗する、などとののしり、握りこんで手の中に閉じ込めようとしてはいけない。だめになっているときこそそれをしがちだ。

 力を抜いて、自分から離れて、事実を見据える。ふつうのひとはそれが出来ているんだろうか。ちゃんとした人間のことは分からないが、ひきこもりの私がなんとなくうまくいきそうな方法が体に押し込めず、じっと事態を見つめることだ。直接解決にはならないが、行動につながり、少しずつ良い方向へ持っていける可能性がある。すくなくとも、地面と並行の生活を送るひきこもりが直立生活に移行し、ちょっとずつひきこもりの外を見ようとしだす、その間の手助けとなるのは確かだ。極端な落ち込みであれば抑えることも出来る。

 家族にちゃんと向き合う。そうしなくても食わせてもらっている私が、目標にしていることだ。できないから、見ないようにして形としては離れたとして、私はまた戻ってしまうと思う。ひとと関わるのが苦手だが、ひとと関わらないとそのことから逃れられないのではないかと予感している。家族付き合いも同じで、私の場合は緊急性がないのでなんとなくこのまま続けられるし、いきなり断ち切っても戻る余地があり、甘ちゃんな私は中途半端に離れて、戻らないといけないとどこかでずっと思ってしまうだろう。

 依存して私を家族に押し付けてしまうこともできるし、そのなかから自分を取り出すこともできる。私にとっては大変で難しいことだが、ひとの目を気にする必要もないし、できなくてもどうにかしてやってみるしかない。ずっと家族に埋没しているふりをして、自分がどこにもないものと思い込んでも実は家族に身を押し付けるということで存在している。どちらがいいかなんてあきらかだ。できないかもしれないという不安とここにいてもいいという弱さは身の内にある。それを自覚することと、どちらを選択するか何をするかは別問題で、いちいちこういう思いでいますと自分自身に宣言する必要はない。