kotomonasha

二歩目に文章を書いてみる。

10,落ち着きは思考の転換のチャンス

 

 間借りしているが、ここを出る。つまり現状はここにいられるのだ。切羽詰まった状態でも私の怠惰はそう変わらないだろうが、いまぬくぬくとひきこもりしていられるので、過酷だったらということは考えても意味はない。寝ていられる場所があるから、私は今こういう文章を書いている。

 いつか来る未来と置かれていない状況とどこにもいない他者に目を向けて、だから何をするということもなく目を向けている体で動けなくなる。それが私のひきこもり。少しも客観的に自分のことを考えられない状態は確かにあった。養ってくれているひとへの申し訳なさと、どこかのだれかより恵まれている状況なのに何もできない情けなさと、自分自身の空虚な一般化、これらを抱え込んで大事にしても、立ち止まり閉じこもるという行動にしかならなかった。そうしていても、自分の中でなにかが起こることはなく、問題はそこにある。これはやっていないのでわからないが、体を動かしていれば問題は変わらずそこにいても自分の立ち位置がちょっとでもずれてくるのではないだろうか。

 将来の居場所はここでないからといって、今はここにいる。その事実すらも逃避しようとしているので、叱咤しているのを装っていると自覚しないといけない。ここでやるはずのことを、叱咤し続けるだけで通り過ぎられるわけはない。罪悪感に苛まれ自分をののしったら、つぎにやることがお利口に順番を待っている。順番待ちにすぐに対応できていたらひいこもりなんてしていないので、ひと休憩は入れていい。というか、順番待ちをあとで対応するためには休憩するのが大事だと思う。ひとつ考えこんだら、味気のない二週目をせずに頭を休ませる。思考を泳がせるだけでもいいし、別の体の使い方をするのもいい。とにかくさっぱり休む。そうやって絶望感無力感に風通しをしたら、うまくいけばちょっとずつ、やることに対応する道筋を歩ける。

 早い段階で、金を出してもらっていることに真っ向から向き合えたらよかった。中途半端に向き合っている装いをして、結局いちばん大きな迷惑をひとに贈ることになっている。意識し過ぎの弊害はある。

 家をすぐに出るわけでもはたらくわけでもないので、将来はこうしないといけないと言い聞かせているよりも、体を動かすことだ。現状はひっぱっても目を背けてもそこにあるので、体を動かす場所はすくなくとも今はここだ。ここにいてはだめなのに、という考えがついてまわり逆に体に悪いようだったので考え方を変えてみた。ころころと認識を転がしていないと窮屈なのかもしれない。

 あたりまえのことを落ち着いて書いていられるのは自分をののしっていなくて、心が穏やかで、不安が少ない時だ。なぜこうしないんだ、なぜできないんだ、と問い詰めずに自分のできないことと対応の仕方を説明していられるが、むしろ落ち着き過ぎて行動できていないんじゃないかという不安の種が常にいる。布団にこもるのはマシなので受け入れようと努める。同じことを何度も書いているが、ほんとうにこれの繰り返し。参ってしまわないだろうか。

 落ち着いて不安を眺めている状態はとても変な感じ。これが行き過ぎて万能感になったらろくなことはしないだろうし、反動がきついだろうと思って不安の方には行かせてやるが楽観的な方には手放さないようにしている。いくら調子が良さげといっても、即興力や体力は相変わらずないのでいきなり走りださないようにしている。そうやって抑えているから、このぬたーっとした穏やかさを何度も経験しているのかもしれない。

 自分の責任というものにちゃんと向き合えたら次に行けるんだろうとは思うが、地道に探すか、石に飛び移るか。