kotomonasha

二歩目に文章を書いてみる。

42.ストレスのない文章

 

 あったことを記すのみの日記ほど面白い。井上松五郎の日記を引用している文章を読んでそう思った。

 たとえばネット記事で、視点がどこにかたよっているのか、というのを考えるのが癖になっている。商品を売るための文章。読み手に寄り添っているふるまいをする文章。社会の見方を誘導するような文章。

 誰と会った、と名前のみ並べて何を話したかは書いておらず、色々話した、とだけ記されている日記をなぜ面白く思ったのか。書き手についてちょっとでもその環境や人柄など、情報を知っていて興味があるからという点もはずせないが、受け取り方を誘導されることがないという点を私は注目することにしたのだった。

 ともすれば読まれることを想定していない文章。こちらが勝手に読んでいるだけである。私は手紙を書くのがへたくそだ。あれもこれもとまとまらないのは良いが、良い手紙を書こうとかっこつけて、うすら寒い装飾をいれてしまう。至って真面目に書く。最善を尽くす。しかし、ひとりよがりが透けて見える、つまらないどころか不快な手紙しか今のところはかけていない。自分が書いたものを自分がもらうわけではないので、実際のところは分からないが、書いた後の手ごたえはいつもそんな感じで失敗したなと思う。次はちょっとましなのを書けるかもしれないという気になっている。

 ツイッターの短い文章でも装飾がこれでもかとちりばめられる。それから、これまたネットで歴史、まあ私が読もうと思うのはおもに新選組あたりなのだが、歴史上の人物について改めて紹介したりする記事で、創作なのか、伝聞なのか、伝聞をもとにした推測なのか、あいまいになっていると不快だ。ネット記事じゃなくても小説だともうすべて混ざるので言ってられないが、ある種のストレスは蓄積される。つまり、どこになにが偏っているのか、判断しようとして、はっきり仕分けすることは不可能なので、結局疲れる。時代をさかのぼって、伝聞すらも遺構すらも残っていない過去のことを思うと、そんなこと気にしてどうすると思うが、目くじら立てなくてもある程度確認はしたいものなのだ。その点、まるっきりフィクションである小説はこれまたストレスなく読める。文字をただ追っていけばいいだけだ。ただ享受する。 と書いたが、モーリヤック著作集のうちの一遍の冒頭をちょろっと読んだだけでそんなことを思っただけだ。フィクションでも、登場人物の会話が続くと別のところで、もしくは重なる点もすこしあるとは思うのだが、しんどくなったことがある。

 私も日記を記している。起床就寝時間と、その日に起きた特に書いておこうと思ったこと、頭の整理のために考えていることや次の課題など、外に置いておきたいこと。メモに近い。

 この文章も、だらだらと長く続けているだけで、日記メモとそう変わらない。考えたことが、外に出したくて長い文章になりそうなら、ここに書いている。ただ、ちょっとだけ装飾はあり。つい飾りたくなるでしょう。しかし、飾るよりも身から出た言葉を残すようにしている。使い古されたテンプレートになっている言い回しは避けたいが、自分の中に言葉が無ければありきたりにはなるだろう。自分の言葉を探すときは身体の感覚に意識を向けることが多いかもしれない。そこ以外から私は構成されることは、気づいていないだけかもしれないが、今までないように思う。

 二つのタイプの文章を比較するという気づきがあった。文章はいろんなところで読んだ方が楽しい。ネット記事、ツイッター、ブログ、新聞、古本、チラシ、カフェで読んだり、図書館で読んだり。人の文章を読んで私は学んでいる。文字を追うのと同じくらい、文章を作るのってとても楽しい。