kotomonasha

二歩目に文章を書いてみる。

13,準備がしたいひと

 

 不安は消えてなくならず事態を片付けるというまでに至っていないのに気持ちは穏やかでいる、そんなもどかしい状態で自分の行動をあそばせていたら、気づいたことがある。

 作品を作るとか、成し遂げるとかはできないことがわかっているので、やることといえば構想を練ったり、いろいろと整理したりするなど。それだけで分かりやすい達成感はなく、次に待っていることがあるなと確認するのだが、その作業をすると充実感がものすごく得られる。やる前や終えた後はさらなるやるべきことや先の不安に嫌な気持ちでいるが、作業中は活力が充満していて自分がちゃんとした人間であるかのような気になる。

 準備の作業をすると、調子がいい。思い返してみれば、私は昔から準備が好きだった。私にとって学祭のメインは当日ではなく準備期間だった。たまらなく準備段階の作業が大好きなのだ。編み物をするならいずれ毛糸を紡ぐところからやりたくなるだろうし、料理なら食材調達、洋服を作ろうと私が思ったとすると型を作るか布を織るか。

 調子が悪いのは完成形にいきなりとりかかろうとしているからではないか。何事も準備が大変だが、一番楽しいところだ。それをいつの間にか忘れていた。なぜわすれていたのか。

 たとえば算数から始まり数学は私からすると自分で準備ができないものだ。学校で習う勉強は道具であるから完成形であって当然で、道具すらも自分で一から作り出せないことを残念には思ったが一応仕方が無いと納得させることができていた。学校は完成形がいっぱいだ。学債の出し物、切り絵とか創作物が主だったが、自分で準備ができる行事があるというのは貴重なことだったのかもしれない。すぐ飽きたが、テスト勉強の期間を一時期熱心に取り組んでいたのはやはり準備に惹かれたのだろうか。自らそういう行動をとればいいが、私はそれができる人間ではなかった。

 完成形を整える作業に囲まれて、慣れて、準備作業の楽しさどこかに消えてないものと思い込むようになってしまう。目を向けるのは完成に近い作業や行動で、なんだか嫌だけどそれしかないがどうしていいのかわからず、やがて体調を崩す。

 準備の段階の楽しさとは、共同作業の重要性などと重なる部分はあるのかなとちょっと連想した。現代のひとは、などといって話される機会もあって私はなんとなく聞きかじったくらいで完璧にはわからないが、共同作業をしなくなって人間はちょっとでも孤立できると思い込むようになった。するといろんな問題があるらしいが、私はよくわかっていないのでここには書かない。準備作業の楽しさを忘れたことは、私が自分自身を体の中に閉じ込めようと無意識的に躍起になることと関りがある、ひとつの要因じゃないかと書いていて核心に迫っていると信じている。

 例に挙げるものは現代社会にたくさんある。そうじゃないものを見つける方が難しいだろう。食材、服、スマホ、電気、あらゆる情報、すでに完成された道具を使い、誰かがまとめてくれた情報を利用し、快適な生活だ。しかし、私には自分で準備するという工程が必要だ。紙がデジタルになかなかならないのは書類を使って作業したい、その行為をしたいという欲求があるからじゃないだろうか。そう考えると、貴重な手仕事や技術というのは、その存在をすべてのひとが知っているなら、無意識的にやりたくてたまらないひとがだれか出てきて、途絶えることはないのではないかと希望は感じる。

 思えば、忘れていたにせよ、準備作業がしたいと水面下では身をよじっていた。それに気づくまで時間はかかるし、実行するまでも長いだろうが、自分が何を欲しているのか理解することはなにより力になる。私は何かの準備作業をしていると元気になる。

 便利な社会の利点はもちろんあるし、私もこの豊かさをいただいている。ただ、準備をまったくしなくて良い環境をいきなり差し出されたら、準備が大好きな人種からしたら、びっくりしてしまうのだろう。やがて便利なものをなんの抵抗もなく受け入れる状態になるのかもしれないが、ある程度、準備作業をするという機会を経ないと充電不足で私の場合はひきこもりになる。

 たぶん、自分の調子のいい状態をわすれたりしてエネルギーが枯渇して、溜まったらひきこもりになるひきこもりポイントがひとつ追加される。私の場合は今ひとつわかったが、みんながみんな、準備作業がエネルギーになるとも思えないからひとによってはいろいろなのかな。