kotomonasha

二歩目に文章を書いてみる。

3,自分で動かない人

 

 そうする力を使おうともしないが、自分のかわりに人に何かをしてもらうということを、拒みたがっている。古くからある暗黙の了解、数式、文字、それらをいちから考えていくことはできない。食料はスーパーで買ってくる。服は機械でつくられたもの。仕事や家事は親がしている。私はそれらができないことをもどかしく思うとともに、彼らがいるのなら自分はしないのだということはわかっている。

 そして、布団に閉じこもり、自分がしなくても誰かがやっている社会から身を遠ざけたつもりになる。自分の手の届かないものがあるということに、そんなもんだよね、好きにやるわ、と思えないのは私だから。そうは言っても、と好きにやっている自分の代わりに誰かがやらなければならないことをしている、と考えるのをやめられない。すべて背負うのは無理だとわかっているので、できないことには手を伸ばさずに、ただ悩むだけというのは利口だ。しかし、まったく動かなくなるというのはいかがなものか。それだと悩むだけと、手の届かないものに手を伸ばすのとあまり変わりはない。もちろん、行動があって少しでも近づけるかもしれないのと、どうことが運んでも布団の中にいて何も変わらないのでは、まったく違う結果となるが。

 やはり、起きれて座っていられる私のことを見ると、きついことを言いたくなるものだ。やさしくしたほうがいいのは決まっている。今まで活動していなかったのに、いきなりすべて完璧になど誰にもできない。しかし、元気な姿を見ると、つい多くを、と言っても本来あたりまえにあるものだが、求めてしまう。それからどうにか身をかわして前に進まなければならない。ひとがとっくの昔に経験したことだが、時期は遅いとはいえ、私にもできないことはない。とくに今元気な時に少しずつ慣れていくこと。今はちょっとましだ。最悪のときよりは、自分がひとりで生きていけないことや、自分の能力を過大評価しているかもしれないことや、体力がないことを、その目で見ることは苦痛じゃない。内臓に入り込みたくなるようなそんな気分にはならずに、そんなもんだとおもえるだろう。きっとその調子だ。

 ふつうなら、諦めを常に抱えて、抱えていることも意識せず、前に進んでいる。まったく高揚感にあふれて、または盲目的に何かに集中することで諦めを忘れるというのはあまりに極端だ。そればっかりにとらわれることにつながりかねない。私の理想は、その盲目的なほうにあるが、それこそ輝かしい希望だ。熱中しても思い通りに体は動かないし、ひとりになったとしてもそう思い込んでいるだけで、私はどうしてもどこかにいるひとを気にしてしまう。自分になにができないのか、という前に私は何をしているのか。私はできないのではなく、それをしている。

 

 ともだちからくるラインの文章は、私個人に宛てられたものではないという認識を持つことがある。ここでもまた不必要な他者をつくりだしている。つい、送られてきた文章の汎用的な面を見てしまう。私からの返信がそっけないときは、相手が暇つぶしで誰でもいいからメールを送っているとおもっている。私の言葉でなくとも相手は気にしないと判断する。自分宛てに受け取った時でも、私が書いた返信は理解にむずかしいのではないだろうか。伝えるのがへたくそで、伝えた気でいる。

 今文章を書いているのは誰かの為ではない。誰かに向けたものではない。こう書くのは、絶えずだれかを想定しようとしてしまうからだ。今のところ、それがプラスに働いたことはない、そう考えたほうがいいくらいには他者に雁字搦めになっている。ひとのことを考えるというかたちを取ろうとしていても、相手の姿を見据えることにはならなかった。

 他者との適切な距離を見誤ったもしくは疑問に思ったときから、私のひきこもり癖つまりは逃避が顕著になった。ルールを守りたくなくなるという性質もひきこもりにも影響を及ぼしているかもしれないが、これはひきこもりから抜け出したとしてなくならない気がしている。

 ひとを尊重するということは小さいころから気に入っていたが、実際は自分本位で、相手のことを見ていなかった。ひとを良い面も悪い面も見る、その行為にばかり気を取られていたのだろう。やがて、自分のできていないことと相手のできていないことを混同して、と言えば聞こえがいいがつまりは自分がそうであるとはかけらも思わず、結局身動きをしないようにして、外部のほうに変化を求めた。

 自分が働きかけないなら、他者が変わるわけがない。こちらにどうしてほしいのか理解もされないのだから。しかし、このまま身を流れに任せていたら、生じた疑問はいつまでも解決しないと思ったのは私らしい。そこで劇的な変化も収穫もないのも私なのだけど。ひきこもりというのは他者との距離感を自分でいちから考えようとした結果のようにも見える。いまだに途中なので何とも言えないが、自分一人で数式をいちから考えようとしたら、つまりはこうなるということにも思える。本当にいちから他者と自分とのありかたを見つけられるかと言えば、自分一人にそんな力は備わっていないが、これはどうしてももどかしい思いをした私の挑戦である。これがなあなあで流れていくのか、つぎはぎで何か一つ作り上げるのか楽しみだ。

 こんなことを誰もしようとは思わない。なにせ皆身についていることだし、それは手段でしかない。そのさきにやることがありそうなものだ。私も多くの人が進んだ道を遅れて歩くのだろう。流行りにあとから触れる癖のように、ひとはこんなにも楽しくやっていたのか、と生き方すら遅れて真似事をしていそうだ。

 自分で切り開くことは困難で、自分に何ができないのかすら理解するのには時間がかかる。口を開けて芋虫を追いかけている鳥を私はSNSのおかげで間接的に見ることが出来た。いつ私は気づくだろう。そして気づいたあとは体の使い方をものにする段階も待っている。