kotomonasha

二歩目に文章を書いてみる。

2,乗れる流れをつかむ

 

 逃避には、何もしないで逃避するのと、好きなことしかしないで逃避するのと、二段階あったことを知ったわけだが、文章を書くのも例外ではないようだ。

 まず物語に興味を持った。私は最近本を読めないときが多いので、今回の場合は映画だった。好きな俳優の出演している映画を、ネットで配信されているものはレンタルして見た。このときは開き直って、元気でひきこもりを謳歌して一か月ほど、一日中映画を見たり、Youtubeであがっている俳優のインタビューを見たり夢中になっていた。元気だから映画を見まくったというより、好きな俳優を見つけて元気が出たという気もする。英語を理解したいな、とこのとき思ったので、たぶんいつか勉強することだろう。脚本とか、物語の構造とかに興味が出て、それから四か月ほどは映画を見る頻度も落ち、やがて何もしなくなるのだが、小さい心の動きがいちどなかったら、今こうして文章を書いているかはわからない。まだ今もうんこくさくなってきたなと思いながら布団の中にいるかもしれない。

 そして、書き出しをあらかたやって、ブログの文章。ここまでこれて結構うまくいっているようだが、落ち込みはすぐそばにいる。いかにうまく目をそらすか、直視しなければならないことではあるが、極端に沈み込んで、また布団の中は嫌なので、なにもできない人間としてじっくり進めるつもりだ。焦燥をいやに警戒している。

 楽観的だと、それじゃあバイトでもしたらよろしい、とひとに言われそうで、それを回避するために閉じこもろうとしてしまう。やはり活動しながら逃避するというのは体力のいる、ステップアップした逃避だととることができるが、映画を見ていたときと、「作業」しているいま、ここに違いはあるのかという疑問もでてくる。「作業」しているのはおよそ人が眠りについている時間だ。布団の中で映画を見るのと、無人だと錯覚できる時間帯に好きな作業をすることに、変わりはなく、四か月前と同じことを繰り返しているのではないかという不安はつきまとう。

 文章については確実に少しは前進している。文章を書いて、ちょっと休んで状況が変化したことにより前進したとするなら、同じことを繰り返しながら、地道に反応を起こしそれについていくしかない。こう書いただけで胸が気持ち悪くなってくる。外から与えられるチャンス、機会に跳び付けないことと、ひきこもりでいることは関係している気がする。いちど足を止めてしまったら、ふたたび流れに乗るのは力がいる。人が訪ねてきたり、仕事を提案してくれたりしたり、このまま流れに従えば違うところに近づけるかもしれないとわかっても、むしろそう認識するからこそ目をそらし足を止めてしまう。人から与えられるものに頼るのをためらっているのか、人からの期待を過剰に意識しているのか。あるときから自分は即興が苦手だと自覚した。これはだめだ間違いだな、と思いながら失敗した際の弁明や相手の反応を想像し、軌道修正をしないということがある。これは自分の行動に責任を持つのに慣れていないからこその行動のひとつだ。いちど間違えて、間違えたことと反応を確認する。成功例は成功して当たり前だから過ぎてしまう。反応がいやなくせに、責任を持たない私は反応を確認したいらしい。

 結局逃避の中でのステップアップなのだ。ここで止まってはいけない。ここで止まろうとすれば、地と並行に体を落ち着ける生活に戻ってしまう。これ以上があり、いま実感しているちっぽけなステップアップも馬鹿にできず、私は一段ずつ階段を上るしかない。たとえ進歩と思っているものが足踏みだとしても、その場で足踏みしないと次へ行けないのだ。流れをつかむために、もだもだと様子を見て近づいたりちょっと離れたりはじかれたり、なんとなく周辺で準備しているのだろう。

 また、二歩進んで三歩さがるというのなら、それもその気力があればここに記したい。