kotomonasha

二歩目に文章を書いてみる。

26.設置したカメラ

 

 何もしなければ朽ちていく。下処理をして使えるようにし、手を加えなければいずれ土になる。私ごときが貴重な材をごみくずに形を変えてなんになるんだという思いと、のうのうと好きなことして出来上がるのはただのごみくず、というひとの目を気にする癖を、越えられなくて土になるのを待とうとしている。私以外に手を加えるものがいないか、私が寝っ転がって考えあぐねていると別の人がすばらしい形をかんせいさせる。あぐねていると、虫や雨が使えた材を土に変え、植物は居心地を整えて根を張る。何にもしないで、ひとにどうみられるか想像していたら、私はぽんこつで居続ける。阻むのはいつも自分自身だ。自分で障害物を置いて、自分一人で困ったなーとやっている。自分では実は出来ることでも、自ら他者の目という監視カメラを設置し、壁を作り、溝を作り、道を通れなくする。はたから見れば、そんなうじうじしていないでやってみればという感じだろう。外から働きかけられても何もしない。自ら外に影響を受けてエネルギーに変えることはある。

 立ち止まるとき、必ず私は自ら設置した監視カメラを凝視している。そして、カメラの先にいない他者に責任を委ねようとするのだ。委ねた気になっていたら楽なのだ。じぶんではどうしようもないと言い訳できて、目はまっしぐらにネガティブな方へ向かい、無理にはつらつとしていなくて良くなる。しかし、それはくるしいのだ。一番楽に苦しめるのだ。一番楽にみじめになれる。

 それから脱したつもりでいるが、本当はど真ん中にいる、というのが無理してはつらつをふるまっているときだ。体力が無いと、ひと月も持たずにお手製カメラが気になりだす。

 なので、今私がやってみているのはひとに合わせずに好きなように不愛想でいることだ。あんまりいい方法ではない気がする。が、私の表情を使った表現や意思表示は狂ったところがあるらしく、昔から微笑んでいるつもりがニヤニヤしているといわれ、ちょっと笑ったつもりが爆笑していると冷たく評され、普通にしていると睨んでいると文句を言われる。(最後に関しては、睨んでいるとわざわざ不満を漏らすのはその人自身に相手に対する嫌悪感がちょびっとでもあるということだと思ってそんなに気にしないようにしている。)最近でも、気を抜くと顔がへらへらと笑いだす。そうでなくても、ひとに合わせて笑うとかへらへらと機嫌を取ろうとするという好意をやりすぎて、コミュニケーションに支障をきたしていると感じている。意思の疎通は見ているものがかみ合っていないと薄っぺらいものになったり、そもそもせいりつしなかったりするでしょう。大勢に話す人が個人に向けて放すのか、それを聞いているひとが、この人は自分に向かってしゃべっていると受け取るか、大勢の誰かに向かってしゃべっていると受け取るか、双方を嚙合わせるのがこの場合は難しいだろうなと思う。私は自分自身の責任をどこにもいない誰かに差し出しているので、酷いときはへらへらしていればいいと思っているし、自分の言葉を発することに躊躇うし、相手の言葉は私に向けられていないんじゃないかと踏みとどまるのが習慣になっている。彼や彼女は私に話しているのに、私は一拍遅れて後ろを振り返る。もちろんだれもいない。

 隙に不愛想でいようというのは素の私は不愛想だろうという偏見で、押し付けだ。ほんとうはへらへらしていたい、大声で笑っていたいのかもしれないが、その姿を人に見られたくないので不愛想でいるのかもしれない。少なくとも、ひとの目は想定している。なのでやっぱり好きなように不愛想でいようというのはあんまり効果的ではないのだろう。結局ひとの目を気にいして、自分の行動を出来るだけ目立たないようにしていたいだけなのだ。誰が見ているというのか。誰かに見られていることがそれほど問題なのか。ひとの目に行動を左右されるべきではないだろう。正論がポンポンと出てくる。私は自分の設置したカメラを降ろすことが出来ない。

 体力がいるということを何度か書いたが、それも言い訳のようなものだ。今体力がないのは事実であるが、体力を使うこと以外にも私がしないといけないことはあるはずだ。体力なんて知らねーと限界を維持し続けられることがつまりは体力があるということなので、実際体力はいるが、わかってます体力をつけないとね、と延々やっている気がしてならない。

 カメラを下すこと、体力をつけること、そのほか私がやるべきと分かっていないこと、それらはひとつずつ片づけていくのではなくて同時進行でちびちびとすすめていくんだろう。

 こうして文章を書いてぐるぐる同じところを歩き回り、実際は何も行動してないね、と確認するのもやり過ぎは注意だが、未熟者なのでいちいちやっていてもいいだろう。書いていれば、このあと何か行動につながるのではという期待もある。ここは便秘気味の時のトイレの中だ。お尻が痛い。出きらない。お尻の穴に引っかかっている気がする。でもこれ以上はどうしてもしょうがないというところで、せめてウォッシュレットで洗い、尻をぬぐう。なんだかなあ。すっきりはしないが、手を洗って便器に背を向けるとまあ出せたしいいんでないという感覚を持てる。

 排便なら実際排出するので体も軽いだろうが、書いて吐き出せたり整理できることはもちろんあるが、物事が進むことはない。これから進めるための助走である。助走で満足してしまいがちなところもある。

 私なんかがごみくずつくってと思いつつも、ごみくずでも作りたいのだ。材が土になっていくのは未練がましくみているのだ。ひとのめを想定して、それだけを凝視し、自分自身の目が何を見たいのか何を見ているのか全然わかっていないで、わすれていく。お手製監視カメラを見た後は自分の目もしっかり覗き込むように。