kotomonasha

二歩目に文章を書いてみる。

28,快適な何もしないに向けて

 

 ひとの目を気にして何もしないという言葉を使ってきたが、ひとの目を気にして、すきに何もしないことをしないだけじゃないかと、一人の時間を過ごしながら思った。本当にひとりになれたら、野垂れ死にもできるんじゃないだろうか。たまにある独りの時間だから、何もしないのか、ずっとこうならば何かやり始めるのか。とはいえ、隣に誰かがいれば、自分では何もしないので、やっぱり一人にならないと始まらない。何もしないにせよ、ひとりで何もしたくないのだ。自立していない状態でこんなことを書いてもただただ口だけ。何もし寧ためにも、自分でその環境を作り出さないといけない。そうしたいなあと思いながら、何もしない日々である。ひとりで何もしないためにはどうすればいいのか。わからない。それ以前に自分でやろうとしていない。やろうとすれば、ことは進むのだ。ただやらない。この何もしないでは不満だ。違う形の何もしないを手に入れたいが、良くない何もしないをしているので、掴み取れない。場所に居座って、ひとに責任を持ってもらっている。それをやめなければ、心置きなく何もしないのは無理だ。

 世間体とか、恩とかを一切気にしなければ、できるんじゃないだろうか。引っ越しは不可欠なので、収入源の基盤は整える。あとは、人の絵を気にする癖をやめる。今以上にさらに無礼で恩知らずになる。なんなら家から出れば、あとはすきに野垂れ死にできるのではないかと楽観的になっている。そんなにうまくいくわけはないが。第一に周遊を得るのもなかなか手ごわい。

 いまのわたしはこそこそと頭隠して尻隠さず状態で無礼や恩知らず不愛想をやっているが、堂々とやれたらかなりの進歩だ。ひとまず目標はそこだ。しかし遠い。昼間に活動するのも、今やっと家の中でやり始めそうなところで、外に出るのはかなりためらう。外に出られたら、行動の幅は広がり、家も出られる。もしかすると、直接野垂れ死にできる。わたしはぽんこつなのでこれはほんとうに望みが低いが。