kotomonasha

二歩目に文章を書いてみる。

21,ポジティブの種を求めて

 

 気を落とし閉じこもりたくなったときに文章を書くと、責任を放棄しているという事実を眺めまわすことになる。書いてさらけだして煮てみて行きつく先は自分自身を作り出した知らない誰かに差し出しているというネガティブの種だ。

 直立生活を不完全ながら二か月近くやって、布団に閉じこもろうとするたび文章を書いて私は責任を持っていないのだと見つめなおしてその場をやり過ごした。見つめるだけで解決はしない。毎度どうしたらいいかわからない、まだ責任を持つのを怖がっている、と書いて次をやる。進んでいるわけではないのだろう。何度も違う方向に見えて実は同じところから同じことを見つめなおしてやった気になっているのだろう。これも私には必要な工程でのろまにだらだらと嫌に時間をかけてやっているだけなのだ。

 今の状況を変えるにはどうしたらいいのかというと、責任を持つ、これのみだ。とはいえそれではあまりにおおざっぱで、私が歩くには右足を上げます、降ろします、などとまずはいちいち段階を踏んでやらないといけないので、ひとまずの目星だ。

 何より、責任を持たないということを数年も悩んで何もできていないので、言うは易し。

 食事を食べるのも、ひとの目を見るのも、ひとと同じ空間にいることも、ひとに意識を向けられることも、そんな些細なことすら出来ない状態なので責任を持つなどと言う簡単なことのなかでもちょっとむずかしいことはできるわけがない。

 できないやりたくないというが、体力をつければ実はできることなんだろうなと思っている。しかしながら。私は怠惰な人間なので、隙あらば怠けようとして何かと先延ばしにしてしまう。とりあえず、今何をしたくないのか、やろうとする元気があるのに快楽の方に寄せられてさぼっていないか、常々確認することにしている。ちなみにこれを書いている現在は責任持つか、とため息をついて両手を体の横にたらしている。ついでに昨日までは、責任なんて言葉は頭から消し去って体を床と平行にするのに努めていた。

 なぜ責任を持つトレーニングすらできなくなったのか原因は分からない。ひとと対峙することを放棄した際、それまでもひとと対峙していたわけではなかったという事実に衝撃を受けるだけでそれを何かに変換せずに立ち尽くしていたのと同じことだろう。元来の怠け癖と消費することのみに慣れ切った状態で、いちど立ち止まってたくわえが空になるとほとんどゼロからのスタートになる。そういうわけで、自分をどうやって手元に置けばいいかわからない、持っておきたくない、などと布団の中でうめいているのだ。

 ぽんと跳んだら塀を超えられた、というのにも準備がいる。跳ぼうできない状態からのスタートもあるのだ。あのときは勢いで行けた、胸をたたいたら覚悟を決められてそのまま濁流も乗り越えられた、そう夢想したって体は一向に動きたくないのだからしかたがない。責任を持つのだって、ふつふつと自立への欲望が湧いて順当に育っていれば跳んで掴みに行けるだろうが、私はどうやら早い段階から立ち止まって足踏みし種を消したか、火種に強く風を送りすぎたのだ。

 たぶん自分を手繰り寄せたらなんとかいける、と目標は定められているものの、どうしたもんかなと今日も書くことは同じだ。

 体力がついて、その準備が出来たとして、怠けてチャンスを見送ったりせっかくのエネルギーを別のところで消費してしまったりするのではないかという心配もある。書く行為こそが戒めになってくれるのを期待している。