kotomonasha

二歩目に文章を書いてみる。

25.しばらく文章を書かなかった

 

 毎日書けば文章が書けるようになると喜び、気持ちが沈んだり体がどこか痛くなっても書いていたら良くなる、次に行動を移せると意気揚々としていたのももう二か月前になる。パソコンを開いてもつまらない空腹を汚く埋めるだけの文章しか書けなくて、紙に向かってもへろへろの文字でそれこそインクと白い紙を無駄にする。つまらないことは続けない。楽でつまらないことは惰性で続く。ツイッターを見るとか。快楽を得るとか。

 文章を書いているうちはなんだかこのまま頑張れば進めるのではないか、でもどうしたらいいかわからない、という希望と焦りと諦念に行きついて、何度かおなじところに帰着するので私は書く気が起こらなくなったのだろう。その後、一日のうち寝ている時間は増え、夜に起き、一時通常に戻っていた食欲は再びなくなり、のどでつっかえるような気分が常にある。食事を楽しむという行為はかけがえのないものなんだろう。

 この文章を書いているのは、金を稼ぐために行動して二日ほどあとだ。とはいってもバイト先を探しているわけではないのであまり変化はない。ただ、手を動かしていて、それが案外調子がいい。気分が良くなって、文章も書けていると言う事だろうか。現状を記しておこうと手が動いた。放置しているブログが気がかりでもあった。三万字ほど書いたあとでブログに載せる、しかも毎日ひとつずつ載せようという魂胆だから、毎日が二日おきになり、一週間、ひと月、けっきょく溜まっていた文章をすべて公開する前に文章を書く手が止まった。そんなことなら公開しないか、いっぺんにすべて公開してしまえばよかった。

 編み物に没頭していた。体感二週間くらい。しかし、ひとさまのデザインを編んでいるので、最初は楽しく集中していたのだが、これも消費だなという考えがちらちら浮かんでくる。編み図なしで編んだら、毛糸と時間の消費はするが、自分に合った物を自分で作れるのでそういう罪悪感のようなものは薄い。完成した後に金にならないなとおちこまないわけではないが、どちらかと言えば生産寄りの行為だ。ともかく今回はひとのデザインしたものを編みたくて、それだけにのめりこんでいた。完成すると、サイズが小さかった。準備を怠ったせいだと寸法をあちこち計って確認する。二百グラム以上の毛糸をほどいて、巻きなおした。十五センチ幅くらいの大きな毛糸玉になった。もちろん今度は前よりもちゃんと準備をして、同じデザインのものを編む。失敗した原因に焦っていたことがあげられる。楽しいから、気持ちが急いて、どんどん編んだ。編地をあまり確認せず、心地よいまま手のきつさなどは、編んでいて良い感じの手ごたえであればそれでよいと思っていた。それでよくなかったし、編んでいる間没頭しながらもこの消費行為が気になったし、動画を見ながら編んでいるときは私はいつ勉強の時間をとれるのかと思ったものだ。編み物はいくらでも続けられる。しかも消費行為で娯楽だ。仕事にするなら良いが、憧れはしても私にその技術はない。今やらねばしなくなるというわけもない。というわけで、時間をつくるために編み物は一日一時間まで、ということにしてみようとした。いきなりは無理だ。編んでいるときにあれもしたいこれもできると思っていたことは編み針を持っていないときはkれいに忘れている。ぼーっとして時間を過ぎるのを見ているだけになるので、編み物はいちどに一時間という基準をつくる。気が乗ってきたら三十分は過ぎてもいい。そうやって編み物を助走に使って、別のことに時間を使えるようにした。慣れていないことは、集中が一時間も続かないことがあるので、一時間作業したら編み物をする、というやり方も今のところ有効だ。とはいえまだ数日である。怠け者でやる気が無くて、勝手に作り出した他者に自分の責任を差し出そうとする私が、再び動き出すのはそんな方法だ。

 勉強したい、という気持ちを引き出すのには、元気なひとがしゃべっているのを聞くといい。自分で考えて、自分で決めて、発見を持っていてそれを見せてくれる人の動画を今回はたまたま見つけられた。

 ちょっとした前向きな気持ちは、ひととしゃべると落ち込み、膨大な苦労と時間と体力が必要だと確認すると諦めに走りそうになる。ぼてぼて歩いて、正面からやり過ごせるようになりたいものだ。今はほど遠い。隠れて、察知能力を無駄に使って回避する。

 体を動かせばいい、なるようにすると思えばいいと、分かっているが、行動が伴わないのが続いて二年。何もしないでいた二か月、いや映画を見ていたのだがちゃんと考えないと忘れていた。文章を書いていた時のように戻れそうだが、これを一か月はやめるのは可能だったろうか。一か月前は、まったくこうして文章を書いているなど思ってもいない。方法としては、外部の刺激を受けて落ち込み、作品にエネルギーをもらい、いっぱいに消費行動をし、ちょっと冷静になって、というふうに、わかっているようだが、タイミングも重要じゃないかと思う。二か月も停止期間があるなんてたまったもんじゃないが、なら早めるためにとにかく動け消費しろといっても出来る気はしない。今度のときにやってみてもいいが、そのときにはいまの考え方も馬鹿じゃないかとすべて捨て去ろうとしているかもしれない。

 こんなことをかいていると、すっかり回復したような気になるが、戻ったといっても、出来る気になって実際はちょっとしか行動せずに文章だけ書いている状態に戻るだけなので、その先はいくらでもある。そもそもまだ二か月前の状態にすらなっていないことだろう。前のちっぽけな起き上がり術すら身についていない。文章を書けていることも驚きだ。昨日は百字も書けなかった。書こうとすらしない。

 初歩的なところでは、掴みやすいタイミングに体が乗るのだろう。それで調子づけて、自分で取りづらいタイミングに手を伸ばす。しかし、ひとからの好意や差し出された機会も受け取れない私に、そんなことはできないだろう。タイミングと好意とチャンスを見て見ぬふりしないようになるのはいつだろうか。こればっかりは、自らそういう体に鍛えないといけないだろうか。責任もそうだが、これくらいじぶんでやれと私も思っている。