kotomonasha

二歩目に文章を書いてみる。

22,目が近い、顔をあげろ、着実に。

 

 向こうから歩いて来るひとがどこを歩くのか、そのまままっすぐ来るのか横にずれるのか、いろいろと想定した挙句立ち止まってやりすごす。それしかできないうちは手元に自分自身を置いておくのも困難なのだろう。正面突破や平然とすれ違える状態であれば物事は自分で進められることもあるだろう。導かれるのを待ったり困難が過ぎ去るのを待つよりも、自分の歩くところをただ歩いているだけのほうがずっと自分自身をひとに差し出しにくいし責任も手放さずにいられる。

 まったく自分で何を決める気もなく自分の意思もよくわからずひとと向き合うこともせず職も探さず、そんな期間を経てようやくちょっとだけ考えることを再開し始めた。これまでを見直し、今後のことを考える。すると責任をどうやって持つのかということを毎度見つめざるを得ない。これが突き詰めた先にあるものなのか、直近の課題なのか、ただのマイブームの可能性もある。中学生のころはよく責任という言葉を目にしたし自分でもよく書いた。意気込みや目標に頻繁に責任を持って行動するとか書いたものだ。その頃から大人への階段を意識しだすのだろう。責任といっても文字ばかり馴染みになって実際どういう事なのか全く理解していなかった。ただ脅迫的な絶対的な確固とした何かだろうというイメージだけで、私はそれに怯えていたのだ。怖気づいた反動でやらねばせねばと頭ばかり奮い立たせて行動にはつながらなかった。結果ずるずると無気力なひきこもりになったわけだ。目が近すぎる。向こうから歩いてくる人に注意を向けすぎる。気にせず歩けない。顔をあげない。こういうことをしているうちは責任をもって行動するのには遠いだろうな。

 あいまいな記憶だけで書くが、しゃきっとして、なるようになる、できないじゃなくてやるんだよ、と言って飛び込んで、比較的活発的にいられたときというのは、自分の未熟さに開き直っていたように思う。私はバイト初日なのでまったく何もわかりませんすべて聞きますあなたが忙しくしていようがデカい声で聞きますいちいち聞きます、というように。動けないのはみんなはたらいているのに私は無職、あの人ははたらいていて私は親の金で飯食って実家に寝泊まりしてる、自分から危機に行けない学びにいけないのが情けない、うまいことしゃべれない世間知らずだから、気力がないので期待には答えられません、せっかくのチャンスを受け取る気力もありません、出来ない自分に絶望している場合が多い。本当はもっとできるのにと本心では思っていて実際は気力も体力も落ちていて加えて自信も知識もないのでうまくできない、なので落ち込む。行動する前に結果を予想して落ち込み、差し出されたチャンスもふいにしてしまう。自分はできないから失敗する、どんくさいから当然ひとをいらいらさせる、愛想がないのでふつうにしていても負の感情がちらっと過ぎたり、相手がちょっと不安に思ったり不快に思ったら睨んでいるように思われる、そこがスタートであればいいのだろう。しかしながら開き直るのにもエネルギーがいる。目をぱっちり開いて溌溂とした気分でいるのにもたくわえが必要で、ただ、ぼさっと無気力でいながらそこからさらに沈むことが無いようにはできる。げんきいっぱいで私は未熟ですとやれたらいいかもしれないが、そこに行くにはもう少し時間が必要な気がする。今はただ、布団の中に籠らないよう、向こうから歩いてくる人をいつも避けようとしないように、ちょっとずつでも理想に近づけるように、物事を進められるように。できないのが当然。無職なのはわたしがばかだからと事実を見せびらかした方が良い。当然無職ですよ、甘ちゃんだから当たり前です、これはちょっと背伸びしている感じはする。私にはまだ早い。淡々と未熟さを見つめるだけがまずは良い。