kotomonasha

二歩目に文章を書いてみる。

4,逃避以外の「NO」を探せ

 

 「NO」が言えない。「NO」にあたる日本語を知らない。

 私はやりませんというのはつまりは逃避だ。自分の都合を自ら押し通すことが出来ないので、寝ることにした。いないふりをする。勉強に飽きてしまい、世界も狭く閉じ切って、社会でひとり立つことがなんとなく苦痛なので、学校をやめる。ひとに養ってもらうのは苦痛なので、進学して家を出た。しかし、学費はひとに出してもらう。これをもう半分繰り返した。また一周やることになるのか。今のところ、無責任な希望があふれても冷水を飲んで、慎重にやっているが、じっと動かない期間を長く取ったとして、別のことができるかといえばそうでもない。

 思いきりがことを起こすというのは実感しているが、そうと知ったきり、ちゃんと思いきりを為したためしがない。これは即興力とも通ずると思う。ぱっと捕まえるとき、途中で力を抜いたら、小さな生き物でも強い生命力、身体力で手をすり抜けていく。野生の鳥を両手で捕まえることはできるのか。撃たれた鴨を、草が揺れるのを頼りに探し当てることはできるのか。水を跳ね草を揺さぶる活力と騒がしさに、姿を見ることもなく羽根をむしる前に私は気おされてしまった。

 そうして長らく自ら突発のさきに行っていない。いつまでも幼いという感想を抱くのは簡単だ。実際未熟なのだから率直と言うか。

 自分が何を出来るのか体感していない。それを自ら確かめる機会も作らなかった。私はできないのだからと、できないことを理由にできない、と示す。これは幼稚と言いたくなる。

 自らできることをとことん試しに行くしかない。石を跳んだその先の石に着地できるのかは跳んだものしか知りえない。しかし、こういう飛び込まないといけない、その数歩手前で私は呼吸が浅くなる。逃げたい、できない、逃げるしかない、と選択肢をはじめからひとつに絞って、狭いのどを通らせようとする。

 いつだって選択肢はひとつだ。小学生の頃だけは、なるようになるということに身を任せられていたのだが、その時は逃げるという選択肢はなかった。といっても、決して窮屈ではなく前向きなものだ。実は自分が思っているほど悪くはないと、ひとしきり悪いことを想定した後で思い直すことが出来ていた。今また逃げるという選択肢がないものとして過ごせるかというと、もって二か月だろう。

 ちょうど、私が初めてあきらかに逃げたときから、逃げてもいいという言葉を目にし耳にするようになった。この逃げるは前向きな言葉だ。つい最近考えるまでなんてうわべを飾った言葉だろうと、私はできれば近づきたくないとさえ思った。結局のところ、行きつくのは社会的に生きる道であることがほとんどだろう。戻ってくるのだから、逃げてもいいよ、そういう言葉に取ってしまえば肌の下から皮膚組織が収縮し固まるような苦痛を呼ぶだけだが、自分がなにかを始めることができるのなら助けになる。

  選択肢はひとつに絞られていたとして、そのことを注視する必要はなく、前向きに進めるのならそれでいい。選択ははじめから実は決まっているのかもしれない。前向きな気持ちで自分の選択を取り出せることほどの至上はない。そのための「逃げてもいい」なのだと最近自分なりに落とし込んだ。もちろんこれは私の場合だ。あたりまえに逃避をする私が、ひとつに絞られた選択肢を前向きにとらえるか、苦痛に思うか、ふたつの場合があるということ。私ははじめから、と言っていいほどはじめに近いとこから逃避をしているのだろう