kotomonasha

二歩目に文章を書いてみる。

7,今、休憩する

 

 活動しているとき。がんばれがんばれ、と言い聞かせるのは二回が限界だ。体が窮屈になったとき、がんばれと自分の体を揺らす以外に対処方法がいる。

 体がその形にしか収まらなくなり、皮膚が毛穴の内に凝縮する。ときに集中しているようにふるまうが、集中できていたとしてもその先がない。 体の力を抜くように努めてもなかなか難しいし、すぐには寝られない。寝たらたいていは治まる。

 布団の中で窮屈になり、負の思考に沈んでしまったときは、やめる方向で、と方針を提示して、決して煽ることなく思考のままにさせ、落ち着くのを待った。

 体が元気な時も泳がせるのがいいかもしれない。ただし、その活力を使ってなにか為そうとか、達成するのを目的とせず、体だけやりたいようにさせる。

 活動の停止が、まだ私の中で色濃く残っているうちは、窮屈で活発である状態を有効活用するのはまだ無理だ。慣れていないので、工程をとばすと途端に失敗する。布団をかぶり横臥した状態を、もう少し抜く必要がある。

 

 逃げたいと思ったり自分の情けなさを見たりして、体が固まると思考も悪い方へと一点へ向かおうとする。反芻しても仕方ないことでも透明のレールを引いてとらわれる。体を動かせばいいのだという励ましもレールの材料に使ってしまう。

 ただ体を動かせばいい。仕事をする、人と会って自分の未熟さを知らしめる、終わらせる、そうじゃなくて今だけが存在するとして体を使う。

 言語化や思考することを放棄して寝るのもいいし、座るだけ、息を吸って吐くだけ、さきのことはそのときに対峙する。今を動くことで、後回しが逃避にならないようにする。

 

 直立二足歩行生活を再開して間もなくは、休憩するのも活動停止につながらないかと不安になるが、思い切って休憩していい。休憩明けはだいたい行き詰っていたものは地道に片づけることができる。

 自分自身のことは慣れが出始めている。いま引きずられそうになるのは、一番の課題である対人関係のことをほうりだしているからだ。なんでもできる、なんでもわかっているみたいに書いて、対処方法を心得ているつもりでいる。確認でしかない。

 実際に成功したのはひとりのときが多い。外に出ることはまだしていない。問題は何も解決していないので、絶好調の私に待ったをかける。これこそ楽観と沈み込みの両立だが、このまま何もしなければ楽観が勝るのではないかと危惧している。そうなると、ひきこもりまっしぐらの未来が訪れるということだ。

 スタートに立って準備体操をしている状態であるというのは理解しないといけない。

 とはいえ、私は当たって砕けて、つまり作用を起こして、ひとりにならないといけない。それを望んでいる。停滞していることほど不安なものはない。こうして不安にやや押されていると、それが過ぎた後に次の行動を自然に起こすことができる場合もある。砕けるのに耐えられる強さを持ち合わせていないので、加減ができたらいいのに。落ち込むと休憩を入れるしかないので、そのことで何かをやれる、ということではメリットと言える。