kotomonasha

二歩目に文章を書いてみる。

9,動きながら窮屈

 

 Youtube流しながら作業しているとだんだんとその行為の方がメインになる。イヤホンが耳に入っている感覚は窮屈で、その鈍い感覚が動画を見る聞くという行為にのめりこませる。なんなら何も流さずにイヤホンだけしていてもいいくらい。そんなばかばかしいことが起きる。

 スマホの小さい画面を見て一定の手の動きや変わらない感覚というのも窮屈で、意味もないのにツイッターのタイムラインの更新画面をスワイプし続けたり、同じことを検索したりする。こういうおかしな行動につながるのが窮屈さだ。私は怠惰な人間なので、変化せず簡単な動作にのめりこんでしまう。どこか窮屈で抜けられなくなって、ひきこもりになったのかな。視野を広げる、体を開き伸ばすことをしないと、どんどん窮屈になってしまう。

 

 人の目を気にしているのが理由で内にこもっていると、絶えず鬱屈した気持ちで目の周りがすっきりしない。休むことが出来ず、楽しいことをする気にもならない。しかし、ひとに対して見栄えを気にする。たまに罪悪感ともいえるものを一時的に忘れることはできる。できるというか、それしかしない。罪悪感を振り払って自分ではたらく、などということはできない。これこそ現実逃避だが、快楽の中にいるときだけは、周りや自分の状況を見ないで楽しんで笑っている。そして、それが終わり戻ってくると自己嫌悪に浸る。何度か繰り返すと、現実逃避と自己嫌悪に慣れてくる。

 そうして力を蓄えていたんだろうか。もちろん身体的にも寝ていたら体力はないが元気にはなる。すると、もう一度自分のいる場所をはっきりと見て、打ちのめされるが、それを受け止める余裕がある。二度三度と自分のことを確かめた。ここにずっといられると思うときもあるが、実は私の場所ではない。ひとの部屋を間借りしているだけで、しかも家賃は払っていない。これからここにいては払えないし、ここの家主になるつもりもない。目や耳をふさいで固まることなく、自分の甘ちゃんぶりと目指すところを見つめることが出来たら、体は起き上がった。

 それからつぎはどうするのか。今までの繰り返しか、もう一押し必要なのか。

 直立二足歩行の生活は慣れてきたが、今でも喉が閉じている。五メートル先のひとに声を届けられるかわからない。常に喉に意識がいく。声は細く不安定でこもっている。柔軟性も張りもない。声のみならず、しゃべる言葉も形に出来ているか怪しい。外に出る言葉は、その瞬間から偽りになる。そう思いたくなるほど私は声を言葉として扱えない。文章でもままならないが、その瞬間から確認することはないのでいくらかはましだと思いたい。

 程度の差はあるが、基本的に食欲はない。喉につっかえるような感覚があり、それが胸まで下がって食欲を阻害している。腹はすくので、食べないと体が動かず食欲が回復する機会も失われる。一日の大半を寝て過ごしたときのように何時間食事をとっていないのかということが頭を占めることは無い。

 文字が読めないときが多い。嬉々として新聞を読むこともある。調子のいい時だ。悪いときは小さいコラムも読めない。ネット記事も読めない。短く分割していてページをまたがないといけない仕様だと、意気込んで読み始めても途中で投げ出してしまう。いや、一ページに収まっていてもなんにせよ読めないし、ネット記事の仕様の不満は調子のいいときも変わらない。

 考えているとたいていすぐに停滞するが、文章になるものを自分の中から見つけたそばから文字を書いていく行為は窮屈じゃないと言える気がする。一本筋道を立てて話を考えてみるとどんどんつじつま合わせとほころびで自分の中のわくわく感がなくなっていく。考えていないで、見えるものを書いたらいい。完成形をいちどしっかり作り上げようとするより、完成までの予感があるときにどんどん書いたら楽しいのは間違いない。さてそれが形になるのかできるのか。途中で駄目だこりゃと投げ出すことがよくあるが、投げ出した後の方がうまくいくこともある。そのことにちゃんと向き合うのをいちどやってみたらいい。

 

 文章を書いて、なにか力になり、変われそうだと思ったが、活動停止しているときより軽度になっただけで、根本は変わらない。

 寝ることで逃避している、ここでは活動の停止とよく書くが、人が動いているところに行くのも抵抗があるとき。こういうとき障壁を前にしても立ちすくむことしかできない。逃げたい、逃げる、と方向が強制的にというか吸い込まれるように決まる。自分のやっていることだが、どうしようもない。どうしよう、と立ち止まったら撤退が決まる。そんな状態。だからといって、絶対避けないと意気込んでもその反動で逃げる方に舵が切られるので、やればできるんだよという掛け声は調子のいいときにしか効かない。調子のいい時を取り戻したいが、無理やり反省もなく調子のよさを引き出すと、すぐにがたがくる。いちど失敗したから次は大丈夫、とは思えない。

 楽天的な時はある。逃避と言えば同じだが、体を動かしつつ逃避するのと、完全に閉じたひきこもりの途中で湧き上がる楽天的なときの現実逃避は、ちょっと感じが違う。後者は罪悪感が半端じゃない。前者にはわかりやすく、次へつながるかもしれない可能性がある。

 ちょっとだけ視野を広げられているいま、広げてみたが、それ以上は恐れて現状維持を選びたくなっている。絶えず未知のものに触れ続けることが、私を閉じこもらせない鍵である。やるべきことのなかには視点を限定させてしまうものもある。足元ばかりも見てられないが、あそこに行かなくちゃならないというのも、私はほどよい向き合い方が出来ない。その状態こそ窮屈だ。

 まずは体も思考も解き放って、窮屈じゃない状態で変化を迎えいれたい。