kotomonasha

二歩目に文章を書いてみる。

38,リズム調整中

 

 朝、おなかがすいた。昨日はスーパーで肉が陳列しているのを見て食欲が湧かないどころか気持ち悪くなっていたが、腹はすいた。朝の寝ざめも良い。六月に入ってから、朝がすこぶる気持ち悪かった。目が明かない、腹が気持ち悪い、頭が重い。しかし今日は日付が変わってから寝たのに、五時前に目が覚め、七時には腹がすいていた。食事の感触もまだつっかえる感じはあるが悪くはない。

 朗報から書きだしたのは、この二週間、どうにも駄目な自分に少し落ち込んでいて、そいつとこれから先も付き合っていかないといけないからである。

 商売人の鋭さを見た。商売人のというより、社会人の緊張感かもしれない。それに対すると自分の弱さが浮き彫りになる。弱さでぶつかれずに、のらりと知らんぷりをして、すると相手はこちらに合わせて躱してくれたり、自分の持っていきたいように主導する。はじめのうちはのらりへらへら鈍感なそぶりで避けていられても、ちゃんと向き合わないといけないのだろう。私がやる。と決めて、私がやりたいのだから、責任を手放す癖は放っておけない。

 この二週間は体調がすぐれないという言い訳が効くが、リズムを自分で作らないといけない。ぼーっとしていると、食事のことしか考えないで一日が過ぎている。何をするのか、何に決めるのか、どこに決めるか、決定するのは自分だ。決めないと、いつまでも終わらない。正解の付近でうろうろしていないで、ここにしようと決めれば済むのだ。意見をすり合わせるとか、顔色をうかがう、状況を汲む、それらはポーズだけしていればだらだらと時間は過ぎる。間延びした語尾のよう。それらは判断材料でありメインではない。しゃきっと決めればいい。正解である必要はなく、ただ決定が必要なのだ

 できなくてへこむ。無職であることがふつうの社会人にとってどんなようなものなのか、雰囲気で触れた。自分で稼いでないからだろうが、へえそっか。と納得した。できないことが多い。失敗もする。これまで、やらなかったからこその遅れた経験だ。走りだしが遅いのだと自分に言い聞かせている。時間が戻ることはないし、私のこれまでの行動が変わることもないので、へこみながらも足を止めない。

37.主体迷子

 

 食欲がなく、体力も落ちている。一日のうち体を横にしている時間が長くなっている。ここ数日の話だ。もうすぐ環境が変わるが、移行中に無気力になりかけている。体調を崩しているのも一因だ。だが、過去には喉がやられて声も出ないのに心は開いてひととコミュニケーションをとる気だけ満々で労働をしていたこともあるから、体調不良だけが、ひとと会話するのも億劫になっている原因ではない。だが、いろいろ重なっているにしろ一言にすれば体調が悪いということになる。これまでもさんざんそう文章に書いてきた。体力がない、不調である。今回はすこしこれを崩して書いてみる。こんなにまいっているのは、先の不安と、主体を溶かしてしまうのではと言う心配があるからだろう。

 独りでは生きていけない。このことを数年前よりは諦めて受け止めているつもりでいたが、実際はちょっとましになったというだけのことだ。責任を自分でしっかり持っておけない性質の私は、これを克服しようと今無謀ともいえる強硬手段に出ている。甘えの力も借りて。ひとに助けられながら、自立しようというので、悪い癖が出て、主体が私の下にあるのかひとが握っているのか、と迷ってしまう。人が持っていると思うとつらい哀しい悔しい。取り返すとかそういうものではないのではないか。そもそも私は責任などはなから持つものではない。持てないのだとしたら、苦しい。ひとに自分の主導権がある。それほど苦しいものはない。責任を持つ苦しさも大きいだろうが、自分が被る痛みが、自分の下に降りかからなければ、そんなみじめなことはない。これは世間体を気にしているからこその感覚かもしれない。人の目を気にしないようにと言い聞かせながら、そうすることはできない。小さい規模ではできたとして、社会的に生きることはやめられない。

 今私に占めているのは、主体が持てなくてつらいということ。これまでも何度も責任をひとに差し出してしまうことをかいた。似たような話なんだと思う。

 私に決定権はない。ひとの決定が、わたしの領域に浸食している。私の頭の回転が遅く、反応が鈍い。そのせいもある。わたしが、反応を鈍くしているという自覚もある。外に出ればもう少し早いか、そうじゃないとしても一旦止めはする。主体を溶かしている、責任を明け渡している私が悪い。だからこそ離れようとしているのだが、力がないのですっぱり断ち切りもせず、多くのつながりをつけたままである。これでは環境変われど、疑似的に一人になっただけで、解放感を味わうこともなく、責任はひとが手綱を握るように持っていると思い込んで、数年前の二の舞をやるのではないか。前回とは違うという気はしているが、構図としては似ているのだ。私は前より図々しく慣れているだろうか。ああ気持ち悪い。

 ただいまは不調なだけで、元気を取り戻せばやっていけると思ってもいい。そういう楽観を頭の中に細く流している。それでも根本的な課題なので不安は大きい。そういう時、ひとりになりたいと繰り返し唱えているが、ひとりのときはいい。ひとが介入してきたときにも自分の遺志を保って行動したいのだ。苦しい。人に明け渡してしまう弱さ、主張しない弱さ。

 もう一度体力を作り直して、一日一日継続して態勢を立て直していくしかない。がんばる。安心できる環境で、整えていけば、ひとと対峙する体作りもできるだろうと信じて。

 

36.ご近所さんの虫

 

 先日外を歩いたせいか、黒い虫、おそらくマイマイガの幼虫が敷布団の繊維の上をかきわけ歩いていた。風にのって衣服に付着するらしいので、まあいいかティッシュで潰してそのままごろごろした。

 一番最初の記事に書いたが、布団から起き上がる生活を再開しようというきっかけになった虫は、チャタテムシかもしれない。と虫について理解を深めようとインターネット状の文章をあさっていて思い返していた。奴は透明で白に近い色をしていたが、チャタテムシも説明としては白い虫と書かれていることが多い。写真となると茶色っぽいのだが。過ぎたことなのでわからないが、私が遭遇したのは一匹のみだ。お仲間もいるはずなのにと不思議でならない。その後私は意気揚々と掃除をしたので彼らが居座らなかっただけだろうか。

 私の知らないところに虫はたくさんいる。家があちこちきしむのも、バチと音がするのも、湿気やゆがみもあるだろうが、虫が潜んでいたりカメムシが落ちた音だったりするんだろうな。

 物をどけるとよくクモに会う。クモは好きだ。どこで食料調達してるんだかと思いつつ、穏便に生活スペースを分けている。毒蜘蛛はいないと思っているからこその安心感だ。よく知らない羽根を持つ虫は怖い。

 今も得体の突き止められていない虫と対峙しているが、どう来るかわからない怖さ、そもそもの命のエネルギーの恐ろしさに参っている。しかも生活をともに別々のところでするというわけにはいかない相手だ。ティッシュでくるんで潰したり、私の知らないところで死んでくれと極寒の中雨の中窓から放りだす相手だ。気を長くして相手について知っていこうと思う。半分くらいはこちらが譲るとして、対面して何も考えずに逃げ去ることからは脱したい。

 ネット上ではなかなか参考に出来そうな記事は見つからない。書籍も当たってみようと思っている。どうにも、実体験が垣間見える文章と言うのは貴重だ。図鑑に載っているような説明などは、毎度書いてもらえると便利だが、実際とどれだけ離れているのか、それを埋めるのは大変だ。醍醐味ともいえるが。簡潔な文章ではなく、ぼやきとか、不明確な予想とか、感触とか、そういうものが一番参考になるのだが、インターネットはその役割を完全には担えないのか、これでも良い方なのか。知識の宝庫よりも体験の宝庫は貴重で、だからこそ入手しづらい。 人と会っても物事は動くが、虫と対峙してもことを動かさずにはいられなくなる。こちらが譲って自然の中に朽ち果てるかどうか。自然と言うのは一匹の虫のことでもある。まあ実際に一匹じゃないから対応せざるを得ないのだけど。

35.お先真っ暗を行く

 

 良いのか悪いのか、できる人から見たら悪いのだろう。お先真っ暗の中とりあえず独りになろうとしている。あまりに周りが否定的なので、四月末に感じていたなんでもやってやろうという前向きなエネルギーも控えめになってしまった。どうせ戻ってしまうかもしれないのにわがままだけ許してもらって何をやっているのか、ものにできるという楽観が現実になるのは数パーセントだろう、と不安になっている中で、それでもかろうじて足を進めている。他者と取引をするというのは後戻りがしづらくなるという点で良い効果がある。扶養者からすればたまったもんじゃないだろうが、私はある程度許されながら、その荒手を使った。もっとうまいやり方はある。金も無駄遣いしただろう。あまりに焦りすぎたが、これくらいがたがたにけつまずいて足をすりむかないと、私にはできないことだったと思い込んでいる。

 私のような人間が平日の昼間にぼーっとベンチに座っているとき、声をかけてくる人は宗教勧誘者くらいなんだろう。良い雰囲気で、自分の信じるものが疑われることを前提にしつつ、自分の話したいことを話していく。こちらから唯一差し出したあなたへの幸福を願う言葉に目を光らせて、名前を聞き出そうとする。私よりは幸せなのかもしれない。と思うと同時に別の面から見れば私のような人間の方が幸せだろう、とくだらないことを感じていた。

 たとえば、目に見えないものが悪事を操っていて、それはいずれ過去る。その言葉は私には響かない。先を見るのが不得意なせいもあるだろう。世界情勢とか、社会の流れとか、占いの天体の動きなどは受け入れられるほうだが、そもそも社会の中で働いたことがないので知らんと言って何も見えない。その動きを信じる人が大勢集まれば、それは流れと呼べるだろうに、無駄な抵抗をしている。または、ひきこもりで病院にかかってどうするという価値観。病名が分かって、それ以上でもそれ以下でもないなら、結局自分で何とかするしかない、という言い分だ。どういう状態かわかれば、対処の使用もあるが、それは病名が分からなくてもできることだと思う。振り返れば、私がこの文章を書くまでに、同じような状態のひとの体験談などが助けになった。つまりは、病名にややかすりながら、たとえばひきこもりや鬱のような枠の中を覗きつつ、じゃあ自分はどうしたらいいのか人はどうやっているのか探っていたので、書きながらわかったが、やっぱり病名を出すのも悪くない。ただ、私が病名を付けられただけで、そこで足を止めてしまうと決めつけていたのだ。

 悪魔が裏で動いていたとして、じゃあ自分はどうするのか、裏で権力者が好きなように振舞っていたとして、じゃあ私は何をしているのか。私自身どうにもできないのに、むすっとしてそう言い返したくなる。私には響かないが、世には世界が無数にあると知っているはず(もうこの時点で間違いの可能性大)の人でも、裏の力をじっと見据えているので、何がどうどこに響くのか解明は私には難しい。

 お先真っ暗と書いたが、世には見えないものが多すぎる。知識のある人には明瞭に移っているのかわからないが、数字で表される金の動き、商品を工場で大量生産している人の顔、他県の病院でてんやわんやしているらしいこと、土の下の虫はおろか草の陰にいる虫、家の壁にいる虫、物語を作るには大歓迎だが、悪意や不安が生じる隙になる。

 先が見えないのに、不安になりつつもまあどうせやるのだと足を突き動かしている私は滑稽か。滑稽のままやっていきたいが、そのうちそうではいられなくなるのだろう。無駄な抵抗をたくさんしている。抵抗が裏返っているのも珍しくない。逃れられない軌道の中で身をよじって裏返って、人より時間をかけて軌道上を動いている。数学の先生が、素直に解いてください、と言った。私にではなく、素直に解けない人は一定数いる。素直じゃない一面を持ちながらも素直に手を動かすという器用な技術を身に着けたい。今のところは、滑稽だ。

34.だいじょうぶ、やる。

 

 四月末からの時間間隔がこれまでのものと明らかに違う。常に焦りつつ、手を動かしている。一日にやることを書き出さないと頭の整理がつかない。それくらいには動いている。落ち込んでも、長くて二日。だらだらとひきずっているようなところはあるが、手は動いているのでちまちまと進められてはいる。先の不安と世間体を気にすることで、足が止まりそうになるが、私がやらないと何も始まらないと言う自分の目をしっかり見て、言葉を受け取ることで、足を進めている。

 もともと腰は重いし、歩みは遅い。不安だからもっと練習してからにしようとか、今日は休む、休むのも大事だと、抜け道の言い訳を気を抜いたらしてしまう。だから油断してはいけないのだ。

 今まさに不安、しかも無視するべきではない不安であるのは、ここで進むのをやめることだ。

 自分がやる、自分でやる。しかし、その手段に必要不可欠な、人にものを伝えるということがいまだに課題としてそびえたっている。声を出すことすらままならない。たぶん文章を構成することにも私の口は不慣れになっているだろう。よそゆきを装えばいける。自分の言葉で、背伸びをしないで空いて個人を見ればいけるととりあえず諭すことにする。

 身内に助けられているのに、相談も助けを求めることもままならないのは本当に問題だ。自分一人でやっていくのにはとても憧れるが、すくなくとも今は無理そうなので、これまで通り頼りながらやっていくことになる。適度に離れようとしつつ、意思疎通は欠かせない。これを欠けば、私の方が申し訳なさで立ち行かなくなる。援助をどれくらいどの範囲受けるのか。ちゃんと確認する。そして伝える。なんとなく察してねだと双方に気分よくない。今現在、報告が遅れそうだし、相談もしていないので、私は気分が悪い。介入されたら困るだろうなあと先を考えて不安になっているので、悪い癖がそう抜けてない。

 気持ちばかりが焦って、逆に満足げにもなる。ふあんだらけだ。だいじょうぶ、だいじょうぶ、がんばれ。このさきの失敗も不安も自分で抱えていくことの楽しさを獲得したいのだ。

 はじめに戻り、時間間隔のことだが、ここ数日はゆっくりになりつつある、それもあってどんよりと焦っているのだが。先延ばしをするとゆっくりになるので経過しているのだ。腹が気持ち悪くなっても、次に進めるようにしたい。あたってくだけろ、が、できる体調になりつつある。

 

33,希望への小休憩と信じたい。

 

 四月は収入を得られる体制を整えよう。と一月に計画していたが、絶好調の一月、停滞した二月三月と過ごして、思い描いていたようにはもちろんいかない。準備が足りていない。でも、足りていない分をゆっくり進められている。四月はそんな一か月だった。

 新年度なんてのは意識の外だった。おかげでみんなスタートしているのにという考えは遠巻きに見ているだけであまりダメージも無かった。理想どおりではないが、じゃあ何をするのか自分の目で見れている方だと思う。

 ちょっとだけ環境が変わり、温かくなったのも要因だろうけど、ここ十日は継続的に手を動かしている。前半二日ほど停止したが、まあ二日で済んだ。週休二日も自分に許したくない気持ちをなだめるのに成功した。それから、日中起きている。まだがっつり体を動かしていないし、昼間は苦手だ。夕方寝ていることで安心を得ている。不思議なことだ。これをひと月続けられたらいいが、難関はどいてはくれない。筋肉痛を言い訳にしないのにも慣れないといけない。

 だらけた気分のときも、とりあえず現状を文章に書いていると、手を動かそうという体になってくる。

 あれこれ都合をつけて先延ばしにする癖はそう簡単に抜けないので、計画通りにはいかないだろうが、なんとなくやりたいこと、これがらじぶんがすることが見えてきた。いきあたりばったり、というのが私に必要だ、まあやっぱりすぐにはできないから練習から始めないといけない。この時点でもう違うが、意図的に行き当たりばったりにしないとできない不器用な奴なのだ。調べ出したら、不安要素はたくさんでてくる。楽観的に動いて、また振出しに戻ることになると頭によぎる。でも、失敗するならひとりで失敗を満喫したい。なんにしろ動かない事には始まらないので、練習するところと、持ち前の楽観的な見方を放出するところと、切り替えるとまではキッパリしていないが、天秤でふらふらしながらやっていきたい。それがもともとの性のような気がするし、うまく使いこなせれば良い武器になる。

 こんな文章を書いているということは、小休憩。だらついて、やることがぼんやりとみえなくなって、ともすればひと月停滞してしまいそうだと水面下で焦りつつまあ大丈夫だ休めと楽観主義者が蓋をしている状態だ。実は早速先延ばしをしている。なんとなくうしろめたくってこれを書いている。このあと手を動かすかと言えばそんなこともないだろうと予感。しかし、最善は明日も手を動かすということだ、それにつなげられるのなら、後ろめたさと言うものをひきずる時間を長く取るよりさよならまた明日と手を振って休んだ方がいい。わき目も降らず、時間をむさぼろう。

32,停滞ぽん

 

 

 二月前半はやる気がないのをだましだまし手を動かし、怠惰であることに不安を覚えつつ自分に甘くしていた。中盤からは集中を取り戻すことも、これまでの行いを変えるために努力することもなく、停滞。二月は逃げていると思わないくらい長い二月下旬だったが、三月に入るともう三日も過ぎていた、

 家を借りたい、金を作りたいとわくわくしても、実際道のりは長く、その手前でやる気をなくすというのを繰り返している。どうせ立ち止まるのなら手を動かしたいが、手を動かしているなら立ち止まってはいないのだ。

 今の停滞が、またいずれかのタイミングで行動を起こさないではいられない状態があり、ちょいと抜け出すきっかけになるのだろうということは分かっている。その時は必ずある。しかし、少しでも体を動かして準備運動しておかないといけないし、その時を待っているcだけで良いのかという焦りもある。待っているしか現にできていないのだが。これについては体力がない、という言い訳が用意できている。怠け、忍耐が足りない、甘い。

 こういう停滞のときになにをすればいいのか。これまでも書いてきたはずなので、私は読み返せばいいのだが、今回も読む前に、たぶん読まないと思うが、今の状態でとりあえず書く。

 まず、タイミングをただ待つということ。少しくらい動いていないとその何も逃す。

 それから、現状を把握する。何を思いなぜ停滞するのか。よくあるのはひとの目を気にする、これはたとえば食事がのどを通らない口に入れてももそもそでしかない、というふうに表に出る。

 これからどうしたいのかを考える。今回はこれがなかなか効かないそもそもの思考力集中力が落ちていて、たいしてじっくり考えられていないこともあるが、ぼんやりと面白くない、ぷっつり橋が途切れているのでわたるのを橋の手前でやめようと言う感じだ。わたってみたら、それこそ端はつながっていて向こうに行けるかもしれないのに、遠目に見てやめている。体力がない、忍耐が足らない。

 ただでさえ、歩みは遅く、後退も何度もするので、とりあえず手を動かすのが一番なのだが、二週間ほど、いや、ひと月前から予兆があったが、それをさぼっている。

 さぼれる環境にあるので、やっぱり背水の陣を敷こうか、などと頭をよぎる。すぐにそんなの現実的じゃないと打ち消すが、どんなに不安でどうしたらいいのかと打ち消すより、ポンと実行に移した方が幸せじゃないだろうかと思う。ぽんとやれない人間なので無理だが。退路を断ったらどうせ人間の人生なのだからそのほうが幸せ、と思ってもそちらの道に行くことが出来ない。私はそういう人間な気がする。が、そうやって選択肢を消すこともないので、結論は浮かせて起きたいものだな。

 退路を断つ、それかぬるま湯でいる。このままであるならば、別のところで覚悟を決めないといけない。ぼんやりとぬるま湯にいれば、私は何をすることも無いだろう。独りでいると気分が良くなると前にも書いたが、今回の停滞期間はひとの気配が無いと手を動かさずに堂々と怠けているだけだった。しゃんとしていないとそうなのだ。だから、手を動かすための土台作りとして、ひとの気配が歩かないかと言うこと以外にできることを考えていきたい。これは人目を気にする悪癖がかかわってくるのでかなり手ごわい。となるとやっぱり退路を断ちましょうかと手をあげて言うので、そんなひとっ跳びにはできませんと合いの手をいれておく。でも、やっぱり問題は人とのかかわりだ。独りでいたいのに実家にいる。ぬるま湯なのに苦しい。自分自身で責任を持っていないからぬるま湯で苦しい。自分で責任を持っていれば、人に金をもらっても元気にいられるんじゃないかな?私は元気でいられないのでわからないが。ひとの好意や親切や集団で当たり前であるらしいの施しを受け取れない。

 同じ問題に何度もぶち当たっているので、やっぱり、と考えるのは必然。やっぱり、とみっつくらい跳んだところに目星をつけるのは成長していない。

 自分自身で責任を持てないという問題とは別に、ただただ怠けものであることが今の私の問題点に大きく作用しているのだろう。

 このふたつをあわせもつと、問題にぶち当たる前に目をそらして結局問題にそのまま正面っ衝突して、対応できない。

 これがぽんと飛び越えたところにある行きたい場所を目指して、いきなり変えられる力は私にはない。

 今まで停滞から頭を出したのはタイミングを待ったときだけじゃないかと思う。手を動かさないではいられないその時に乗る。乗るのが苦手な私ですら乗れるタイミングだ。それは、自分自身で責任を持っていなくても前の自分と変わっていなくても乗れる。だから、また停滞を繰り返しているのかもしれない、ということで変化しなければ、という文章を書く。やっぱり背水の陣、を実行できたとして、この時点ですでにいろいろすっ飛ばしているが、不安なのはまた戻ってしまうことだ。次は戻らないと思っているから、戻ることになってしまうという不安が大きい。戻らないたすけになると思って、自分自身で責任を持つという夢を繰り返し書いている。

 ぬるま湯のままでいるには私は自信がない。それはやはり自分自身で責任を持っていないから。それと怠惰だから。とりあえず手を動かす、の妨げになっているのも主にそれらだ。とりあえず手を動かす、それも先につながるようなことで手を動かし続けられたら、ぽんとひと跳びできるだろう。てを動かせないで二週間が過ぎた。一月はそれなりに好調だったので、結構へこむ。そういうことで記しておきたかった。