kotomonasha

二歩目に文章を書いてみる。

31.不安解消のため。  

 

 

 

 金があるが何もしない。住む家も時間もあるが、何もしない。何もしないわけではないが、自由に過ごしていない。ひとの目を気にしてひとの気配を気にして、不満げに縮こまっている。

 金が無いと嘆くひとよりは充分に金があるのに、不安なのは自分の金じゃないからだ。家もしかり、屋根があるのに居心地が悪いなどと贅沢を言っているのは別に理由がありそうだが。

 ひとにもらった金を使わずに銀行に預けている。金があっても、家を借りるのすら二の足を踏んでいる。収入が無ければ貸してもらえないと思っている。自分の安心のために金を得ようとしている。家が欲しい。好きに使えるといまよりのんきに思い込めるような場所が欲しい。たぶん、うまくいって収入を得ても、責任を自分でもつことにうだうだと手こずることになりそうだが、いまは取り合えず収入を、と視野を狭くしている。ひとの気配を避けようとすることについては、また対処しないとならない。

 収入を得られたら、私は今より行動するのだろうか。いまよりちゃんと自分を持つのだろうか。収入を得るために動いている今ですら、ひとの気配を避け、無理を避け、ひとに甘えているというのに。

 このまま改善しないままじゃ、自分で金すら得られない。とは思っているが、改善する気配はない。できるかなあ、じゃなくて、じぶんがやるんだよと奮い立たせる元気はまだない。まだないと言い聞かせることを許している。

 この文章を書き始めたときは結構前向き考えがまとまっていたのだ。

 なにかというと、こんなことで金をもらってどうするのだとへこんでいたものの、上記のように自分の今の状況を整理したらちょっと落ち着いて次へ行こうと思えたのだ。

 ひとのお金、ひとの家、そこにいると不安しかない。家業を手伝っているわけではないのでなおさらだ。この不安から脱するためにまず、収入を得ようと動いている。アルバイトをすればいいのだが、これをしないのははつらつとした自分を想像できないのと、責任をどっかに置いてきているからだ。成人したのに責任を持つ気概がない。これは本当に恥ずかしさをぬぐえないし、どうしたもんかなと根底にある課題だ。

 まあ何もしないよりは、というより、いままでも大したことをしていないので、今ばかなことをいじいじしていたとして、まあ別にいいじゃないか。実際、日々窮屈でそのたびにいやになるが、同時に暢気すぎる自分もいる。周りの人が知ればあきれるだろうか。着実に進めたいというのが主にあるので、ちょっとの割合にとんでもなく楽観的な視点があってもまあ大丈夫でしょう。

 私のものじゃない不安と言うと、責任もどこかにおいてそ知らぬふりをしているので、根本的にそりゃあ不安なのもなんの疑問もない。金、場所、責任。自分で持っておきたいですね。

 不安を解消しないと、私は自分で行動しないような、そんな不器用な現状。もともと、ひとに委ねることにも不安を覚え割り切れず、自分で持つこともできず、結果不安で窮屈にひとの世話になってそれを直視しないようにしている。ポンコツにもほどがあるが、事実だ。不安でいながら、魔歩を進めて不安解消していくということが出来なかった。かろうじてうまくやっていたふうなときでもできなかったことを体力がどん底に落ちている今できるとはあんまり思えない。しかし、どうにかこうにかやっていくしかなさそうだなとは思っている。それがすこしもできなければ、私はずっと窮屈だろう。

30,元気が出ていらいらしました。

 

 誕生日、お盆、クリスマス、年末年始、家庭の行事ごとが苦手だ。ここに三年は避けようとしている。意思表示をちゃんとしないので、ずるっと仮病を使っているかんじだ。

 今年はクリスマス前に体が動き出してしまい、ずらそうとしたものの、ぴったり当日に結果的にクリスマスプレゼントをひとに贈ることになってしまった。体が動くので、一年ほど後回しにしていたことを済ませてしまおうというだけのことだったのに。なんとなく喜んでもらえて気分も少し上がったが、その後の調子づいたさらなる接触で気持ち悪くなった。ひとの意識がこちらに向くのが久々で、えんりょもそりゃあするわけない、私の防御が弱すぎるだけなので。いちど気持ち悪くなるとしばらく引きずり、元気が出だしているために、数か月前のことなども思い出して、気分の悪さはいらいらに変わった。元気が出たなあと思うと同時に、むかむかしすぎで、出口が見つからず、叫べばいいのに、そのことすら思い当たらず苦しい年末。本当に久しぶりに自分の頭をたたいた。頭をたたく気力すらなかった。

 むかむかしていると一つの考えに縛ってしまうが、どうしてこんなにむかついているのかと問い、わからず、問い、考えて、いらいらをひとのせいにしていることをまずは自分自身に見せた。それをたよりに、待ってみると、すこしは落ち着いただろうか。結局いますぐ変化を起こすことは不可能で、ひとに頼るしかないのだと事実を見つめる。そのうえで、やっぱり自分がやるしかない。私には難しいことだが、自分でやりたい。元気が出てきているのなら、自分を持つ、ひとに差し出さない、というのを少しずつやっていけばいいのだ。いちいち思い返さないとすぐ忘れてしまう。現状の不満を表に出せそうな状態、、明らかに元気だ。一年前のなんにもない、よくわからない、ただはたらきたくない、という状態から微々たる動きだ。むかついていられるうちに、手を動かそう。

 

29 初動

十一月末から昨日まで、ひたすらセーターを編んでいた。ひとのデザインを完成間近でほどくというのを何回か繰り返した挙句、やっぱり着てみるとサイズが違うとかではなく、形がしっくりこないので、いちから編みなおすことにした。ひとの作ったもので自分の体に合うものを見つけるのはかなり難しいことなのかもしれない。いちど編んだぶかぶかめのセーター、サイズを決めれば簡単に編めるものを今度はぴったりサイズで編んでみることに。と言いつつサイズを決めることに慣れておらず想定していたものより大きくなりそう。七割ほど編んだところで、長時間編む手が違う方向に意識が向きだした。気が散るといえばそうだが、他のことをやらねばならないかなという気持ちを無視できなくなってきたのだ。編み物自体では金は開稼げないとわかっているから。

 十一月末はすこしだけ足を動かしたことで、外への意識と自信の根本的なものを刺激され、動き出したい、手を動かさないといけない。という前向きな焦燥感に駆られつつ、重い腰は軽くならないし、ない体力はいきなり湧いてこないので、その場にとどまって、もがもが身をよじっていた。少しずつ進めたいが、手を動かさない事には始まらず焦っている。今もそんな感じか続いている。

 物件のサイトで2.5万、3万、保証人不要、要保証会社、という文字を眺めまわし、希望と、準備の途方も無さを同時に確かめた。

 切り倒された木は放っておいたら土にかえる。一本の木でさえ、私の手には負えない。よくて三分の一、他はすべて土にかえる。それでいいのではないかと思えた。土にしてしまう、早く動かねばと思いつつ何もできずにいた心境とはまた違う。自然に対して親切心はいらないという考えは変わらないので、焦りはある。焦って、硬くなって動かないか、元来の怠けで動かないかのどっちかだったので、活動につながるほどの焦りはとてもうれしい。

28,快適な何もしないに向けて

 

 ひとの目を気にして何もしないという言葉を使ってきたが、ひとの目を気にして、すきに何もしないことをしないだけじゃないかと、一人の時間を過ごしながら思った。本当にひとりになれたら、野垂れ死にもできるんじゃないだろうか。たまにある独りの時間だから、何もしないのか、ずっとこうならば何かやり始めるのか。とはいえ、隣に誰かがいれば、自分では何もしないので、やっぱり一人にならないと始まらない。何もしないにせよ、ひとりで何もしたくないのだ。自立していない状態でこんなことを書いてもただただ口だけ。何もし寧ためにも、自分でその環境を作り出さないといけない。そうしたいなあと思いながら、何もしない日々である。ひとりで何もしないためにはどうすればいいのか。わからない。それ以前に自分でやろうとしていない。やろうとすれば、ことは進むのだ。ただやらない。この何もしないでは不満だ。違う形の何もしないを手に入れたいが、良くない何もしないをしているので、掴み取れない。場所に居座って、ひとに責任を持ってもらっている。それをやめなければ、心置きなく何もしないのは無理だ。

 世間体とか、恩とかを一切気にしなければ、できるんじゃないだろうか。引っ越しは不可欠なので、収入源の基盤は整える。あとは、人の絵を気にする癖をやめる。今以上にさらに無礼で恩知らずになる。なんなら家から出れば、あとはすきに野垂れ死にできるのではないかと楽観的になっている。そんなにうまくいくわけはないが。第一に周遊を得るのもなかなか手ごわい。

 いまのわたしはこそこそと頭隠して尻隠さず状態で無礼や恩知らず不愛想をやっているが、堂々とやれたらかなりの進歩だ。ひとまず目標はそこだ。しかし遠い。昼間に活動するのも、今やっと家の中でやり始めそうなところで、外に出るのはかなりためらう。外に出られたら、行動の幅は広がり、家も出られる。もしかすると、直接野垂れ死にできる。わたしはぽんこつなのでこれはほんとうに望みが低いが。

 

27.今朝の執拗

 

 朝のテレビ番組を久々に十分ぐらい見て、執拗さがあるなと思った。番組側か、企画した人の意図を伝えようとして、その執拗さもありありと伝わってしまって、毎朝見るには疲れないかな、と余計なお世話が頭をよぎる。意思を伝える過程でたいてい一生懸命伝えようとすると執拗さは伴う。ぼーっとたたずんで、ああそうね、ふーんそうなんだ、などと風に吹かれるようにしていてひとと深く関われる人はいないんじゃないだろうか。私はちょっとでも執拗さに触れたらいやになってしまう。ひとの意識が自分に向いただけでむかむかと気持ち悪くなる。向けられるものをすべて避けようと身をすくめている人間にとっては見ていて疲れるものでも、そうじゃない人にしてみれば、いつものことなのだろう。伝えようとする執拗さ。この文章にもあるのかもしれない。同じことをくどくど書いて、出来るだけ簡略化しないように違う言葉に置き換えるように心がけているが、落ち込んでいるときに読んだら、もういいですとなるのかもしれない。いまのところ読み直そうとも思っていないので、分かるのは先のことになる。伝えようとするのと、それを正誤は別として正しいことだとほころびが無いようにすること、美化すること、それらがあわさると、執拗さの正体はそれなんじゃないかと思うほどに、とても執拗。

 

26.設置したカメラ

 

 何もしなければ朽ちていく。下処理をして使えるようにし、手を加えなければいずれ土になる。私ごときが貴重な材をごみくずに形を変えてなんになるんだという思いと、のうのうと好きなことして出来上がるのはただのごみくず、というひとの目を気にする癖を、越えられなくて土になるのを待とうとしている。私以外に手を加えるものがいないか、私が寝っ転がって考えあぐねていると別の人がすばらしい形をかんせいさせる。あぐねていると、虫や雨が使えた材を土に変え、植物は居心地を整えて根を張る。何にもしないで、ひとにどうみられるか想像していたら、私はぽんこつで居続ける。阻むのはいつも自分自身だ。自分で障害物を置いて、自分一人で困ったなーとやっている。自分では実は出来ることでも、自ら他者の目という監視カメラを設置し、壁を作り、溝を作り、道を通れなくする。はたから見れば、そんなうじうじしていないでやってみればという感じだろう。外から働きかけられても何もしない。自ら外に影響を受けてエネルギーに変えることはある。

 立ち止まるとき、必ず私は自ら設置した監視カメラを凝視している。そして、カメラの先にいない他者に責任を委ねようとするのだ。委ねた気になっていたら楽なのだ。じぶんではどうしようもないと言い訳できて、目はまっしぐらにネガティブな方へ向かい、無理にはつらつとしていなくて良くなる。しかし、それはくるしいのだ。一番楽に苦しめるのだ。一番楽にみじめになれる。

 それから脱したつもりでいるが、本当はど真ん中にいる、というのが無理してはつらつをふるまっているときだ。体力が無いと、ひと月も持たずにお手製カメラが気になりだす。

 なので、今私がやってみているのはひとに合わせずに好きなように不愛想でいることだ。あんまりいい方法ではない気がする。が、私の表情を使った表現や意思表示は狂ったところがあるらしく、昔から微笑んでいるつもりがニヤニヤしているといわれ、ちょっと笑ったつもりが爆笑していると冷たく評され、普通にしていると睨んでいると文句を言われる。(最後に関しては、睨んでいるとわざわざ不満を漏らすのはその人自身に相手に対する嫌悪感がちょびっとでもあるということだと思ってそんなに気にしないようにしている。)最近でも、気を抜くと顔がへらへらと笑いだす。そうでなくても、ひとに合わせて笑うとかへらへらと機嫌を取ろうとするという好意をやりすぎて、コミュニケーションに支障をきたしていると感じている。意思の疎通は見ているものがかみ合っていないと薄っぺらいものになったり、そもそもせいりつしなかったりするでしょう。大勢に話す人が個人に向けて放すのか、それを聞いているひとが、この人は自分に向かってしゃべっていると受け取るか、大勢の誰かに向かってしゃべっていると受け取るか、双方を嚙合わせるのがこの場合は難しいだろうなと思う。私は自分自身の責任をどこにもいない誰かに差し出しているので、酷いときはへらへらしていればいいと思っているし、自分の言葉を発することに躊躇うし、相手の言葉は私に向けられていないんじゃないかと踏みとどまるのが習慣になっている。彼や彼女は私に話しているのに、私は一拍遅れて後ろを振り返る。もちろんだれもいない。

 隙に不愛想でいようというのは素の私は不愛想だろうという偏見で、押し付けだ。ほんとうはへらへらしていたい、大声で笑っていたいのかもしれないが、その姿を人に見られたくないので不愛想でいるのかもしれない。少なくとも、ひとの目は想定している。なのでやっぱり好きなように不愛想でいようというのはあんまり効果的ではないのだろう。結局ひとの目を気にいして、自分の行動を出来るだけ目立たないようにしていたいだけなのだ。誰が見ているというのか。誰かに見られていることがそれほど問題なのか。ひとの目に行動を左右されるべきではないだろう。正論がポンポンと出てくる。私は自分の設置したカメラを降ろすことが出来ない。

 体力がいるということを何度か書いたが、それも言い訳のようなものだ。今体力がないのは事実であるが、体力を使うこと以外にも私がしないといけないことはあるはずだ。体力なんて知らねーと限界を維持し続けられることがつまりは体力があるということなので、実際体力はいるが、わかってます体力をつけないとね、と延々やっている気がしてならない。

 カメラを下すこと、体力をつけること、そのほか私がやるべきと分かっていないこと、それらはひとつずつ片づけていくのではなくて同時進行でちびちびとすすめていくんだろう。

 こうして文章を書いてぐるぐる同じところを歩き回り、実際は何も行動してないね、と確認するのもやり過ぎは注意だが、未熟者なのでいちいちやっていてもいいだろう。書いていれば、このあと何か行動につながるのではという期待もある。ここは便秘気味の時のトイレの中だ。お尻が痛い。出きらない。お尻の穴に引っかかっている気がする。でもこれ以上はどうしてもしょうがないというところで、せめてウォッシュレットで洗い、尻をぬぐう。なんだかなあ。すっきりはしないが、手を洗って便器に背を向けるとまあ出せたしいいんでないという感覚を持てる。

 排便なら実際排出するので体も軽いだろうが、書いて吐き出せたり整理できることはもちろんあるが、物事が進むことはない。これから進めるための助走である。助走で満足してしまいがちなところもある。

 私なんかがごみくずつくってと思いつつも、ごみくずでも作りたいのだ。材が土になっていくのは未練がましくみているのだ。ひとのめを想定して、それだけを凝視し、自分自身の目が何を見たいのか何を見ているのか全然わかっていないで、わすれていく。お手製監視カメラを見た後は自分の目もしっかり覗き込むように。

25.しばらく文章を書かなかった

 

 毎日書けば文章が書けるようになると喜び、気持ちが沈んだり体がどこか痛くなっても書いていたら良くなる、次に行動を移せると意気揚々としていたのももう二か月前になる。パソコンを開いてもつまらない空腹を汚く埋めるだけの文章しか書けなくて、紙に向かってもへろへろの文字でそれこそインクと白い紙を無駄にする。つまらないことは続けない。楽でつまらないことは惰性で続く。ツイッターを見るとか。快楽を得るとか。

 文章を書いているうちはなんだかこのまま頑張れば進めるのではないか、でもどうしたらいいかわからない、という希望と焦りと諦念に行きついて、何度かおなじところに帰着するので私は書く気が起こらなくなったのだろう。その後、一日のうち寝ている時間は増え、夜に起き、一時通常に戻っていた食欲は再びなくなり、のどでつっかえるような気分が常にある。食事を楽しむという行為はかけがえのないものなんだろう。

 この文章を書いているのは、金を稼ぐために行動して二日ほどあとだ。とはいってもバイト先を探しているわけではないのであまり変化はない。ただ、手を動かしていて、それが案外調子がいい。気分が良くなって、文章も書けていると言う事だろうか。現状を記しておこうと手が動いた。放置しているブログが気がかりでもあった。三万字ほど書いたあとでブログに載せる、しかも毎日ひとつずつ載せようという魂胆だから、毎日が二日おきになり、一週間、ひと月、けっきょく溜まっていた文章をすべて公開する前に文章を書く手が止まった。そんなことなら公開しないか、いっぺんにすべて公開してしまえばよかった。

 編み物に没頭していた。体感二週間くらい。しかし、ひとさまのデザインを編んでいるので、最初は楽しく集中していたのだが、これも消費だなという考えがちらちら浮かんでくる。編み図なしで編んだら、毛糸と時間の消費はするが、自分に合った物を自分で作れるのでそういう罪悪感のようなものは薄い。完成した後に金にならないなとおちこまないわけではないが、どちらかと言えば生産寄りの行為だ。ともかく今回はひとのデザインしたものを編みたくて、それだけにのめりこんでいた。完成すると、サイズが小さかった。準備を怠ったせいだと寸法をあちこち計って確認する。二百グラム以上の毛糸をほどいて、巻きなおした。十五センチ幅くらいの大きな毛糸玉になった。もちろん今度は前よりもちゃんと準備をして、同じデザインのものを編む。失敗した原因に焦っていたことがあげられる。楽しいから、気持ちが急いて、どんどん編んだ。編地をあまり確認せず、心地よいまま手のきつさなどは、編んでいて良い感じの手ごたえであればそれでよいと思っていた。それでよくなかったし、編んでいる間没頭しながらもこの消費行為が気になったし、動画を見ながら編んでいるときは私はいつ勉強の時間をとれるのかと思ったものだ。編み物はいくらでも続けられる。しかも消費行為で娯楽だ。仕事にするなら良いが、憧れはしても私にその技術はない。今やらねばしなくなるというわけもない。というわけで、時間をつくるために編み物は一日一時間まで、ということにしてみようとした。いきなりは無理だ。編んでいるときにあれもしたいこれもできると思っていたことは編み針を持っていないときはkれいに忘れている。ぼーっとして時間を過ぎるのを見ているだけになるので、編み物はいちどに一時間という基準をつくる。気が乗ってきたら三十分は過ぎてもいい。そうやって編み物を助走に使って、別のことに時間を使えるようにした。慣れていないことは、集中が一時間も続かないことがあるので、一時間作業したら編み物をする、というやり方も今のところ有効だ。とはいえまだ数日である。怠け者でやる気が無くて、勝手に作り出した他者に自分の責任を差し出そうとする私が、再び動き出すのはそんな方法だ。

 勉強したい、という気持ちを引き出すのには、元気なひとがしゃべっているのを聞くといい。自分で考えて、自分で決めて、発見を持っていてそれを見せてくれる人の動画を今回はたまたま見つけられた。

 ちょっとした前向きな気持ちは、ひととしゃべると落ち込み、膨大な苦労と時間と体力が必要だと確認すると諦めに走りそうになる。ぼてぼて歩いて、正面からやり過ごせるようになりたいものだ。今はほど遠い。隠れて、察知能力を無駄に使って回避する。

 体を動かせばいい、なるようにすると思えばいいと、分かっているが、行動が伴わないのが続いて二年。何もしないでいた二か月、いや映画を見ていたのだがちゃんと考えないと忘れていた。文章を書いていた時のように戻れそうだが、これを一か月はやめるのは可能だったろうか。一か月前は、まったくこうして文章を書いているなど思ってもいない。方法としては、外部の刺激を受けて落ち込み、作品にエネルギーをもらい、いっぱいに消費行動をし、ちょっと冷静になって、というふうに、わかっているようだが、タイミングも重要じゃないかと思う。二か月も停止期間があるなんてたまったもんじゃないが、なら早めるためにとにかく動け消費しろといっても出来る気はしない。今度のときにやってみてもいいが、そのときにはいまの考え方も馬鹿じゃないかとすべて捨て去ろうとしているかもしれない。

 こんなことをかいていると、すっかり回復したような気になるが、戻ったといっても、出来る気になって実際はちょっとしか行動せずに文章だけ書いている状態に戻るだけなので、その先はいくらでもある。そもそもまだ二か月前の状態にすらなっていないことだろう。前のちっぽけな起き上がり術すら身についていない。文章を書けていることも驚きだ。昨日は百字も書けなかった。書こうとすらしない。

 初歩的なところでは、掴みやすいタイミングに体が乗るのだろう。それで調子づけて、自分で取りづらいタイミングに手を伸ばす。しかし、ひとからの好意や差し出された機会も受け取れない私に、そんなことはできないだろう。タイミングと好意とチャンスを見て見ぬふりしないようになるのはいつだろうか。こればっかりは、自らそういう体に鍛えないといけないだろうか。責任もそうだが、これくらいじぶんでやれと私も思っている。