kotomonasha

二歩目に文章を書いてみる。

35.お先真っ暗を行く

 

 良いのか悪いのか、できる人から見たら悪いのだろう。お先真っ暗の中とりあえず独りになろうとしている。あまりに周りが否定的なので、四月末に感じていたなんでもやってやろうという前向きなエネルギーも控えめになってしまった。どうせ戻ってしまうかもしれないのにわがままだけ許してもらって何をやっているのか、ものにできるという楽観が現実になるのは数パーセントだろう、と不安になっている中で、それでもかろうじて足を進めている。他者と取引をするというのは後戻りがしづらくなるという点で良い効果がある。扶養者からすればたまったもんじゃないだろうが、私はある程度許されながら、その荒手を使った。もっとうまいやり方はある。金も無駄遣いしただろう。あまりに焦りすぎたが、これくらいがたがたにけつまずいて足をすりむかないと、私にはできないことだったと思い込んでいる。

 私のような人間が平日の昼間にぼーっとベンチに座っているとき、声をかけてくる人は宗教勧誘者くらいなんだろう。良い雰囲気で、自分の信じるものが疑われることを前提にしつつ、自分の話したいことを話していく。こちらから唯一差し出したあなたへの幸福を願う言葉に目を光らせて、名前を聞き出そうとする。私よりは幸せなのかもしれない。と思うと同時に別の面から見れば私のような人間の方が幸せだろう、とくだらないことを感じていた。

 たとえば、目に見えないものが悪事を操っていて、それはいずれ過去る。その言葉は私には響かない。先を見るのが不得意なせいもあるだろう。世界情勢とか、社会の流れとか、占いの天体の動きなどは受け入れられるほうだが、そもそも社会の中で働いたことがないので知らんと言って何も見えない。その動きを信じる人が大勢集まれば、それは流れと呼べるだろうに、無駄な抵抗をしている。または、ひきこもりで病院にかかってどうするという価値観。病名が分かって、それ以上でもそれ以下でもないなら、結局自分で何とかするしかない、という言い分だ。どういう状態かわかれば、対処の使用もあるが、それは病名が分からなくてもできることだと思う。振り返れば、私がこの文章を書くまでに、同じような状態のひとの体験談などが助けになった。つまりは、病名にややかすりながら、たとえばひきこもりや鬱のような枠の中を覗きつつ、じゃあ自分はどうしたらいいのか人はどうやっているのか探っていたので、書きながらわかったが、やっぱり病名を出すのも悪くない。ただ、私が病名を付けられただけで、そこで足を止めてしまうと決めつけていたのだ。

 悪魔が裏で動いていたとして、じゃあ自分はどうするのか、裏で権力者が好きなように振舞っていたとして、じゃあ私は何をしているのか。私自身どうにもできないのに、むすっとしてそう言い返したくなる。私には響かないが、世には世界が無数にあると知っているはず(もうこの時点で間違いの可能性大)の人でも、裏の力をじっと見据えているので、何がどうどこに響くのか解明は私には難しい。

 お先真っ暗と書いたが、世には見えないものが多すぎる。知識のある人には明瞭に移っているのかわからないが、数字で表される金の動き、商品を工場で大量生産している人の顔、他県の病院でてんやわんやしているらしいこと、土の下の虫はおろか草の陰にいる虫、家の壁にいる虫、物語を作るには大歓迎だが、悪意や不安が生じる隙になる。

 先が見えないのに、不安になりつつもまあどうせやるのだと足を突き動かしている私は滑稽か。滑稽のままやっていきたいが、そのうちそうではいられなくなるのだろう。無駄な抵抗をたくさんしている。抵抗が裏返っているのも珍しくない。逃れられない軌道の中で身をよじって裏返って、人より時間をかけて軌道上を動いている。数学の先生が、素直に解いてください、と言った。私にではなく、素直に解けない人は一定数いる。素直じゃない一面を持ちながらも素直に手を動かすという器用な技術を身に着けたい。今のところは、滑稽だ。