kotomonasha

二歩目に文章を書いてみる。

19,そこかしこに世界

 

 外に出て、草木の王国が栄えているかのようにそこかしこが緑で、太陽が熱くて、空が広がっているのを体感すると、圧倒的な世界の量に私はびっくりしてしまった。こんなだっけか。これらを私は見えていないふりをして存在しないと思い込んでいたのだ。棒立ちになって、目的を持って行動しないでいないと、たくさんの世界をふたたび削除して、眼鏡のフレーム内にだけ自分の意識を限定してしまう。数えきれないくらいの世界に慣れてないのだから仕方ない。どこに目を向けていいのかわからず、そんなだったら目標に集中できないから見える世界をすくなくしているのだ。

 曇りでも昼間には太陽の力が気にすることなく注いでいて、鳴いている鳥がいて、草の間を縫うように移動している鳥がいて、屋根を跳ねるカラスがいて、アリがいっぱいいて、虫が飛んでいる。すべての世界に私は見慣れていない。世界が同居していることに、それまでひとりでいると錯覚したくてそうしたままでいたから、びっくりしている。こんな当然のことにすら目を背けていて、私が見ないようにしていた世界はこんなにもにぎやかなのだ。

 圧倒され、いたたまれないというか新参者の気分になると同時に、これらの世界を体感するとどんなに楽しいだろうかと憧れのようなものを持った。しかし、ひきこもりで自分の世界とどこかのだれかのどこにもない世界だけを見続けてそれしかないと思い込ませていた私には、情報量が多すぎたし、慣れていなかった。何かするときは、眼鏡の枠内に相変わらず閉じこもってしまうし、それでいてちらちらと周辺にある世界に気を取られてしまう。

 近くで目立つ世界はながら見できる。私の血で腹が膨れた蚊が腕にいるのを見て蚊の世界と交わり、あれ、とすずめが近くに降りて世界と目が合う。せいぜいそのくらいだ。

 笹の中、土の中、木の皮の間、木の上の方、それらにいまは私は存在できていないが、世界がたくさんそこにある。全部はふつうでも見ることは出来ないかもしれないが、その付き合い方を忘れてしまっている。八方目の仕方はすっかり体から抜け落ちて、前もへたくそだったから思い出すのにしばらくかかるだろうな。

 別に外に出なくたって、家の中でも世界は折り重なっている。しかし、壁の中で、外の世界は忘れることが出来るし、ジョッピンばかり言っている鳥の声を聞いてもそこに世界があることは無視する。部屋の中で、その向こう側にいる人間のことはなかったことにしている。小さく囲った家の中でも世界をないものとしていたのだ。外に出て自然の中でもそれらをないものとして向きあう習慣が抜けない。ただ、自分の中で存在しないと錯覚させても、にぎやかでパワフルな世界は視界の中に入ってきて、私に作用する。

 視野を広く、体を解放して、なんて言い聞かせていたが、何かに集中するときでも自然の中では否応なしに世界は交じり、自身を解放するほかなくなる。にぎやかで気が散るが、そのなかで平然と見据えることが出来たらどんなに楽しくらくだろうか。と想像して、子供のころや一時期はそういうことをしていたのか、思い返してみるが、その感覚を今はおぼえていないので、あったようなあれはそうじゃないのか、となんともあやふやである。

 自然の中でできるのなら、その前に建物の中で、ちいさな人間社会の中でも世界の重なりを認めることができるはずだ。自然については感覚は忘れても頭ではわかっていたのに、世界の重なりが人間にもあることすら今の私にとって新たな発見なのである。

 社会の世界の重なりを見るということの前に、自然によって見せつけられたことで、自分自身を見つめる行為を距離を保ってできている。ひとがはたらいている間、私は好きなことしかしていないな、という思いが体の中をめぐってどうしようかと考えてから、調子が悪くなり逃げ出したい閉じこもりたいと思うのとは違って、ただ、私が行動するだけだな、という答えにいきつく。

 直近の課題で、この先ずっとこの課題を抱えていく予感がしているほど大きく佇んでいることだ。私しか選択せず、なんの心配をしなくても私が行う。こうして書いても私自身うまく表せてないと思うのだが、それはたぶんものにできていないからだ。どうしたらいいかわからず、いつでもこの壁にぶち当たる。いつでもこの目標をわかっているのはだいじなことなのでそれでいい。

 自分でも自分の行動をするということをわかるというのが、世界を八方目で見るにはかかせないのではなかろうか。