kotomonasha

二歩目に文章を書いてみる。

11,穏やかで絶好調を閉じる

 

 夏の始まりの日曜日。暑いことに手を借りて朝からぼんやり起きていた。なんとなくあちこちいろんな作業をして、決定打に欠け、今までやっていないことが立ちはだかる、生温かい風にたまにびゅんと吹かれつつ眩しい昼間を私は起きていた。口内炎と歯が当たったのか痺れる舌の側面と、母指球にへばりつくパソコンの熱、スマートフォンの発熱。あいかわらずツイッターであてもないところを探るのに気を取られてしまうが、自分のふがいなさと落ち着きを両方持って、気持ちが沈み込みすぎることはなく食事は気が向く時間に三食食べた。

 夕方になって背中が丸まってしまうのを思い出して布団に横になった。暑いので体には何もかけずにしばらくじっとした。ツイッターをちょっとだけ確認するが悪い習慣で、気を取られるものは何もなかったのですぐに見るのをやめたのは習慣づけたい。

 これからどうやって稼ごうかという不安を懐に抱えて、あちこち連れていくのも構わない。そんなほんの少しの余裕と遊びを持って、とりあえず体を動かす。外が暗くなったのも、空いている窓のそばに夜の虫がいるのも気づかずに、二時間作業をした。ただただ体を動かした。きゅっと意識が釣りあがるような集中はない。作品を作るのではなく、その準備段階なのが良かったのかもしれない。まだその先の不安があって作品に専念してよいものかと踏みとどまっている段階で、なにか形にしようと手を動かしても充足した二時間は過ごせなかっただろう。ちまちまと立ち止まり眺めて寄り道をして体を動かす、理想形をひとまとめにしたような一日だった。

 筋力の落ちた体は二時間の作業で疲労したのでおしまいにし、ぎこちなく体を曲げながら虫がこちらを覗いている窓を閉めた。

 当然の流れで風呂に入り汗を流す。労働はしていない。しかし、数日分の汚れを流すためだけの入浴とはあきらかに違った。これまでも疲労するまではたらき、気持ちよく汗を流していたかのような気分で、ともかく単純に風呂でさっぱりした。

 穏やかに、やや心地よく、しかし、ふたたび横になった時就寝の不安を思い出した。五分布団に背中を預けただけで、腰が固まった。寝返りを慎重に打ってもずれるような痛みは伴う。ひざを曲げて休めるが、眠りたくはなかった。寝てしまったらこの好調は途切れてしまうのではないかと予感する。ずっとこのままでいたい。穏やかなままに作業をして、文章を書き、先へ着実に進める、いまならそれができるかもしれない。しかし、そんなことはなくて、体力の限界はある。三日三晩起きていられたらいいのにと切実に思うが、私に自分の体は万能ではない。気分が沈んだらいったん休めば次につながる。好調の時もそうだといい。名残惜しくても手を止めて休むほかない。疲れているときにはへまをやらかしそこでようやく自分の限界にへこんで休むのもいいが、腹八分目で手を止めたらどうか。そうやってできるときにのんきにやって、休んでいる時間の方が多いじゃないかと言いたくもなるが、適切に休んだら、活動停止の時間も減るかもしれない。なによりきしむ腰と疲れた目を貪欲さでもってぎりぎりまで無視したら、次の活動に影響が出るのはあきらかだ。

 朝が怖い。いい気分だからこそ、今日から明日へ変わるさまを体感していたい。そしてまた夜明けに眠るのかと思うと、今度は夜がこわい。ずっと自分の目で見ていたいのだ。でも安心して眠っていい。私が見ていなくても夜は来る。今日のつづきの明日じゃなくても、私は何も変わらないので私のすることは同じだ。結局この手の内に閉じ込めておきたいだけなのだが、錯覚することしかできない。目をつむっても不安はここにある。目を開けていたら不安と治まらない腰の痛みを抱え続け、さらには頭痛も加わりだす。眠ったら視野と体は開き、次の選択に身を任せる余裕ができる。