kotomonasha

二歩目に文章を書いてみる。

23,運転したら声は出る

 

 

 田舎の日曜日は車通りが特に少ない。ふらふらと四十キロ未満走行をぐるっとして帰ってきた。五分もない。心臓がばくばくしていると形容するには足らないが、それでも動揺しつつ変に気は高ぶりつつある中、とりあえす、えいやと道路に出た。ウィンカーの位置を思い出し、ATのシフトレバーのDとRの役割を確認したらなんとかいけると私の容量オーバーした頭は了解した。道路に出るための右折はふらっふらだった。対向車は行った後で、後ろにも車はいないのが幸いした。次の交差点まで初心者ドライバーをびびらせる車はない。ただ、いいところで左折しようとちらちら窺ったものの、助手席で見る脇道とは違いぼけっとしていたらタイミングを逃してしまい、結局信号で曲がった。距離感覚はまったくない。スピードもいい具合に出せなかった。戻る際の最後の左折はなかなかスムーズだった。付近に車がいれば違うだろうけど。車になれたら操作がうまくいくという確実性のないというか論理的でない感覚でしかうまく操作できていない。

 運転するのにもかなりエネルギーを要するらしい。途方に暮れた。ひとと話すことすら気持ち悪くなってしまう私からすると、事故するかもしれない動かすのに体力がいる、こんなものできないと諦めたくなると運転するたびに思うのだろう。

 何も考えずに寝っ転がっているだけでは、エネルギーをあまり使わないのは当たり前だ。寝っ転がって責任放棄していることに比べれば大抵のことは大変に体力を消耗する。

 無理やりというか、強制的に、または自然にとも言えるが、そうやってエネルギーをたくさん使うと元気も湧かざるを得ない。運転した後は声がよく出る。私はすぐさま喉を閉じてしまうが、声を届け続けることすら放棄しているのを流れの中でひっぱりだすことができるのだ。どうもひっぱってきてそのままにしておくのが苦手ですぐしまいこんで途切れさせてしまうが、きっかけはつくれる。次の段階としてはきっかけを利用する態勢を整えることだ。

 ちょっと外に目を向けると、次から次へと後回しにしてきた問題が背を突っついてくる。そして自分で考えることもせずに提示されたものだけ見てできないと思い、足踏みをする。チャンスは待っていてもやって来ず、準備が出来ていないときにこそ訪れるらしい。どおりで私のもとにチャンスがたくさん差し出されるわけだ。すべて受け取らずにいる。その場で対峙できたらまず大きな一歩なんだろうなと予想する。目も合わせず、背を向けて相手が関心を向けなくなるのを待つのが癖になっているから。

 ともかく、運転したら声は出る。喉を閉じているのは私だ。自分から道を見ないようにして、潰して、去るのを待っている。去りはしないから自分自身の問題だけが残っている。目の前に積んである本を売るのか捨てるのか、手を動かして片づけるほかない。

 何もやる気がなくなる。自分は相変わらず責任から逃げている。布団に入ってやり過ごそう。そう思ったら自分がどうしたいのかもういちど見直すしかない。やる気は出てこない。考え直そうとしているていだけで何にもならなかったりするが、そういうときはちょっと間をおいてから、思い出す。今責任から逃げて、今も一分後も責任を持ちたいと思っている。それを思い出せば、少なくとも体を布団から起こすだろう。