kotomonasha

二歩目に文章を書いてみる。

17,切り離し作業点検

 

 経験がない知識がないということに引け目を感じて、そんな自分を見せることを怖がるときがある。今こうして書いているということは、今はまったく平気だ。そんなこともあったな、だって私は経験も知識もないんだからそりゃあ不安にもなるよ、とまるで他人事だ。経験や知識がついたからではない。何も変わっていない。なんなら今でもその恐怖を思い出すこともできるが、そっとしまっておけている。

 恐怖に駆られているときは、いちいち断っておきたくなる。素人なので、未経験なので、若造なので、そして、ひとに対してはへらへらとばかを装い、語尾をきもち伸ばして、もともとどんくさいのがさらに強化される。そういうふるまいをすると、ますます頭の回転は鈍くなる。即興力もゼロに近いまま。ただどんくさい人間が仕上がるだけになり、私は結局何をしたかったのか。ことを円滑に進めたいとか、技術を習得するとか、仕事を終わらせるとかいう目的自体をつのまにか見失う。いちどくらいならいいが、癖になると、下手にまわることがメインのように勘違いして、それ以上のことはやらないし、どうやって止めたらいいのかもわからなくなり、やがて体調が悪くなる。体調が悪くなって、そのときは原因がわからない。かったるくなり、何をすればいいのかわからなくなり、ひとを相手に出来なくなる。

 自分をちゃんと持っていられる筋力がついていないうちに、謙遜すると、ただただ自分をあけわたすことになる。謙遜しちゃって嫌だな、と自分以思っているうちは相手を立てるなんてしないほうがいい。中学生の時にはそれができなくなっていたように思う。そのときにはじめて自立しないといけないんだと思い、作り始めたのは依存まっしぐらのレールだったのだ。

 ひとの声の調子で、舐められているな、と思うと委縮する。そうなんですよ、なんの経験もないぺらっぺらの人間なんですよと。対等に扱われているふうでも、やっぱり合わせてもらっているな、とちょっとだけへこむ。ひとを気にしすぎだ。

 どうしようもないくらい際限なく懲りずにひとを気にする。そういうモードにいる。切り替えようなんてはなから考えない。ひたすらに、それが自然なことのように息をするように自分がひとにどう見えているのかを気にする。ひとを気にするというと気遣いのできるひとだが、悪いほうにはたらくことについて書いているので、この場合はまったくひとのことを気遣っていない。むしろ自分しか見えていない。自分を見過ぎて、ひとが何を求めているのか見えることがあるだけだ。ひとを通して、素通りして、自分を見ることが自然なことかと言えば、それだけなら別に問題ない。みんなやっている。それにとらわれるとまずい。どうしてとらわれるのかというと、自分を手元に置いていないからだ。ひとにひっぱられても引き戻せるか? そばに自分を置いておこう。慣れないうちはなんとなく気を付けておく。と言っても、自分がどこかに行っているときというのは、そうと気づかない。自分を抱えているつもりでいるが、手の中には何もない。気持ち悪くなってはじめて自分のそばに自分がいないことに気がつき、酷い場合取り戻し方が分からなくなっている。今私も取り戻そうとしている最中なので、方法がこれだというのは断言できない。しかし、そのためのこの文章だ。なにが有効なことがあるかもしれないので、こうして書いている。文章を書くのも、たぶんひとつの方法だと思っている。

 今はひとりで作業しているときは、経験も知識も何もない未熟者で甘ちゃんで行動力がないことについて、くよくよすることはない。開き直ることもできないが、そうだなあ、と確認して終わる。と書くとのんきでいいな。と吐き捨てられることを相変わらず想定してしまうが、それが私の助けになるかと言えば今はべつにいらないかな、と突き返す。胸がちくっとするが、布団をかぶらないで良い。事実なので、覆い隠すことはしない、というふうに見つめることが出来ている。これが対人だとどうなのか、は今後の課題で先が思いやられる。その場で足踏みでむかむかする。しかし、やっぱり自分をそばに置いて、ひとはひと、私は自分。と切り離すことは、私には出来るのだ。きっとできる、と願望に近い。切り離す作業を要する場面に直面するのを避けようとしているので、願望のちからでどうにか飛び込めないものかと思っている。