kotomonasha

二歩目に文章を書いてみる。

1,ひきこもりから抜け出したいので二歩目に文章を書いてみる。

 

 仕事をせず、家事をせず、家の手伝いをせず、皮膚の下にすべてを押し込んで周囲から隠れようと一生懸命になっている。閉じこもる布団はある。布団の中ではすべてのひと、社会から逃れられていると錯覚し、ときにへらへらして、消えたくなって、ご機嫌にひきこもっている。

 未来を計画するのがへたくそな私はただただ不安と根拠のない希望を抱いて、結局布団に閉じこもる。

 布が頭に覆いかぶさり、空間が小さくなると、埋没の不安もあるが、遮断の安堵と眠りへとつながる場所であることが、私を幾度も布団に潜り込ませる。

 布団をこよなく愛さざるをえない、社会の為に何もしない人間について記す。

 

 ひきこもりから抜け出したいので二歩目に文章を書いてみる。

 一歩目は部屋の掃除。数える気も湧かなかったので正確な日数分からないが、だいたい一週間。風呂に入らず肌がうんこを薄めたような匂いがしてきてからやっと風呂に入る。三日と一週間を何度か繰り返し、また三日。敷布の布地を泳ぐ透明の虫をつぶして、あれは虱か? とスマホで検索したものの、出てくるいろんなシラミの画像はその目で見たやつとはどれも違って見えた。ネット上のシラミたちはおぞましく気持ち悪いが、私がティッシュでつぶしたやつは、透明で、若干濁っていたにしても体と足はすっとしていてなかなかいけてた。あんまり活動的に泳いでいたので移動したらどうしようと心配して早々につぶしてしまった。たまに開いた本を走り回っているおなじみのシラミさんをつぶしたときの色と似ていた。ただ、足や体の線だけ黒く見て取れた。こうして文章を書きながら、本のシラミさんはなんていう名前だろうとグーグルで検索したら、どうやらチャタテムシというらしい。画像を見てもやはりピンとこないが、小さすぎてどんな形なのか、遭遇する回数は多いのに見てなかったのだ。チャタテムシはピンとこなかったが、シラミの紹介で一緒に出ているコロモジラミというのが、泳いでいた虱にいちばん近いような気がしてきた。

 記憶はあいまいでところどころ美化されている。おそらくコロモジラミなのだろうけど、今となればなんでもいい。しばらく髪の毛を気にして二日に一遍風呂に入ることもしたが、あの泳いでいた一匹以外どこにも落ちていないし、髪の毛に付着した白いものを確認してもふけか筒状の皮膚で、たまにぷっくりしたものもあったが、よくわからなかった。そもそも知らないだけでダニも服の虫も埃を好むほかのやつらもそこらへんにいてもおかしくない。

 とはいえ、それがきっかけになって虱遭遇から何度か風呂に入って、掃除をしようと思い立った。虱もまったく念頭にないというわけではないが、虫たちはまたついでだ。掃除するに至ったのは今私は死ねるか、と自問したためだ。死んで残った私物はどうなるだろうとじっくり想像したら、掃除をするしかないということになった。胸が気持ち悪いほどネガティブ思考をたゆたったそのあとだからというのもあって、それほど悲観的になっていたわけではなく、比較的前向きに、死ぬにしても生きるにしても掃除はするだろ、という結論が出た。

 床と布団に掃除機をかけ、机に積もった埃を雑巾で拭いた。床が見えたのでその日は久しぶりに二時間以上は椅子に座った。物が落ちていない布団が上がった床があって、自分は椅子に座っているというのはそれだけでも気分が良くなる。当初のいちばん向こう側にあるゴールの、物を減らすには気力が足らなかった。すべて処分して死ぬには力強い思い切りか長い時間と貫き通す力がいる。どれも持ち合わせておらず、ぱっと見て床から埃や髪の毛をなくなったようにするだけで疲れてしまった。それに、死ぬとして結局これまで私がしてきた逃避行動と変わらないのでやる意味はあんまりない、どうせなら逃避じゃなくなったときにやりたい。という思いもあったので死ぬうんぬんはお掃除の景気づけに有効活用した。

 きれいになった布団に伏しながら、次の一歩を考えた。何度かかつても掃除をしてリセットするようなことをしていたが、次につながるという明確なことを考えはしなかった。しかし、きれいになった部屋に人を招くこともないし、引っ越しするわけでもない。せっかく今は物一つ落ちていない床も、そのうちまた汚くなる。再び汚くなる頃に、まだ布団に逃げていたら、次にはこれ以上の掃除をするほかなく、その体力は今ですら私にはない。今何か踏み出すべきだ、と言外に静かに受け止めていた。

 定期的に湧き上がってくる執筆への憧れがそのときもちょうど焦燥をともなって充満していた。百字も書けない状態でも、手を動かせば書けるようになると分かっていたので、やるだけだった。物語はいきなり書けないとしばらく考えてから納得し、自分のことを書くことに決めた。エッセイ漫画はネット上にたくさん投稿されていて、目にする機会はあったが、自分がやるとはおもっていなかった。私は想定外を作るのが得意なのだ。しかしエッセイ漫画は貴重な存在だな、とふと思って、自分のことを文章にするのにもつながった。私は自分のことしか書けないのだという諦めも背中を押した。

 現状について思いつくことを書いた。百字、五百字、八百字、二千字、毎日書くようにして一日に書ける量は増えていった。エッセイというほど形にはならない。ファイル名は「書き出し」だ。

 自分のことを書くのにはもう一つ理由がある。自分を見つめなおして、文章にすることで空振りを少なくしながら思考して、ひきこもりを脱却できないか期待したのだ。ひきこもりなんてやめればやめられるだろ、と私はののしるが、そんなことならひきこもっていない。ただならぬ甘ちゃんなのだから、やるぞと意気込んで自分から動き出すわけがない。恵まれた環境でぬくぬくしてる甘ちゃんだ。意気込んでは沈んで、固まって、ひきこもる、その繰り返し。

 そう簡単には変われないが、手段として文章を書く。毎日書こうといって、一週間でやめるのも前例があるが、楽観と沈みを両立している今は果たしてどうか。

 ブログにするのは五歩目くらいだろうか。ここでは題となっている文章が思い浮かんで、ブログ用の文章ページを新規作成した。ブログも三回でやめて、投稿を削除するかもしれないし、ずっと続けるかもわからない。しばらくは書き出した文章がたまってるからその中から選んで何か書くだろう。

 ある程度まとまった文章を書くことで文章力があがるといい。

 

 自分のことを書き出してみるというのはなかなか良い。

 同じような挫折、つまりは同じような逃避を何度か繰り返していたので、自分でどういういきさつで逃避に至るのか、というのを記録しておこう、というのが当初の目的だ。時系列に並べて書くのは最初からできるものではない。とりあえず今のことを書いて、そんな気分のときに時系列にちょこっと整理した。いつ、どうした、と簡潔に書くのであまり面白くない。次に書くのは一年後、というかんじで一度書いたら満足だった。

 学業としての勉強は中学生の途中で飽きてしまった人間だが、高校の教科書を数冊取っておいてたまに読んでみたりしている。そこに体感がないと、歴史から学ぶってむずかしい。それどころか、文字列だけ追って情報としての歴史すら入ってこないことが多い。

 自分の時系列は歴史と違って自分の内から出てくるものだからつまらなくても書いておけば記憶を保温しておけたり引き出せたりして簡単な助けになりそうだ。一方で、寝転がっているうちにこれは文章だと出てきたものを書き留めるのは、次の思考に移行できて良い。

 半月ほど文章を書き出して、徐々に書く文章量が減った。何もせず座っている時間ができて、何もしないなら背中に違和感も出てきたから横になるか、と布団に入ったり、前髪の枝毛を探したり、ネタ切れのような状態だった。自分の内の書き留めるものへの関心が薄れたのだ。そんなときに、ある作業のことが頭を占めるようになった。本当に好きなものなので、ここではただ「作業」とだけ伏せて書くことにする。好きなものについて人に話すのがどうも苦手なのだ。

 あれどうしようかな、と四か月触らないでいた道具や材料のことを考える回数が増えていった。そしてとあるきっかけで、ああこれしかないのかもしれないと盲目的に高揚感をやや伴って、「作業」をするにはどうしようかと考え始めた。このきっかけというのは「作業」にかする程度のことで充分だ。ただし、このときは外部からのきっかけだった。

 火がついたからと言って、一度もう無理だと道具をしまって四か月閉じこもったのだから、気分に任せて始めて一週間でまた絶望するのは避けたい。どういう方向性で「作業」をすすめるのか? 仕事にしたいと理想を抱いているので、前回無理だと思ったことについてどうするのか思案して、「作業」にとりかかった。今回考えたことも万全とは言えない。あまりにも体が動くことを求めたので、体裁として改善案を示したように見せた面も否定できない。

 しかし体を動かせるなら、やめる必要はないはずだ。布団に閉じこもって逃避しているのか、好きな「作業」をしながら逃避しているのかの違いで、これも階段を一段上がったところかもしれない。どうせ逃避しているのだからと嫌悪感からまた布団に閉じこもれば、もう一度体がうんこくさいところからやり直しのような気もする。布団から出たらちゃんとした人間に跳べるわけがない。まずは背骨を立てることからだ。逃避も少なくとも二段階は上がらないといけないようだ。

 働きアリもさぼるやつがいるらしいが、彼らのなかには外に出て好きなところへ行ったりするのもいるんだろうか。

 

 手がしびれ腰と背中が疲労を訴えるほど作業して、休まないと続かないという不安から布団に入るもののしばらく寝られず何度も寝返りを打った。三日間はまったく文章を書く体にはなかった。やがて自分の力不足と、調子に乗って昼間に人と会ったことで逃避を、あらためて自覚し、再び楽観と沈みこみを両手に抱えることとなる。

 作業が少し落ち着くと、停滞していたことが別の形で刺激されたようだった。再び文章を書き始めた。今度はまとまった文章を、そう、ブログというかたちで。書き出しとは少し違って創作の面があるので、いちど紙面に文字を書き連ねたのだが、これがもう思考が文字を書く手と競り合って、ちょっと心配になった。

 高揚というのは気の沈み込みを抑えるふりをして、後押しするような怖いやつだと警戒している。それともこの警戒が真の敵なのか。実際のところみんなお友達というのがいちばんあってそうだなとみている。