kotomonasha

二歩目に文章を書いてみる。

はじめに

はじめに

 半月という時間が私の中でリズムがあるようだ。ブログとして書き始めて、なんとなく筆名をどうしようかと考えながら書き連ねて半月が過ぎた。

 名づけが苦手過ぎる。ま行が好きらしく、動物をあだ名で呼ぶときは似たような響きになる。たぶんこれまで私が付けていいと思った名前は、だれかが付けた名前を借りてきているのだ。名前苦手だなーとうんうん言って時間が過ぎる。これか? と出てきた名前はしっくりこない。しっくりくるかどうかが良い名前にかかってくると思うのだが、私はまったく苦手だ。ならば親に付けてもらって名前でいいのでは? これもしっくりきていないので、いちど筆名を名乗ってみたいのだ。しっくりこない名前その二が誕生するだけかもしれないが。

 時間がたつと、この内容を小説のネタにして本にしたら良いんじゃないかと頭をよぎる。でも、ひとにみせびらかしたい、外に出したいという欲求がある。ひとに見せることのない手書きの読むのも面倒な文章もあるから、これはブログというふうに区別して公開してしまおう。結局そういう結論に至る。それに、ツイッターで垂れ流している文章から本をつくっているひともきっといるだろうし、本にしたいならいつでも公開した後でも作ることはできる。また書けばいいし私は書ける、書けないかもしれないと不安らしいのだ。

 湧き出るものが少ないので、ついこまごまと大事にしようとするが、見せびらかすものもひとつくらいあっていい。文章は書けば形になる。

 ツイッターはやってるが、つぶやくことは目的じゃない。短い文章ですぐに投稿できると、まったく形にならないものばっかりになる。それなりに書けても、書き直したくなったり見ているうちに形が変わってくる。今書いているようなものだと、あやふやなものでも書いているうちに形にするしかなくなる。そして、どういうわけか形になる。その場しのぎのでらでらした文章はそもそも書いていてつまらないのでそういうときはやめるから、よっぽどひどいものはできあがらないし最終的には何かになる。

 私に相性がいいのはこれだ。このブログは私のツイッターというわけで、何もかもひとのサービスを享受しているが、それはいい。つらつらと身から出た文章のひとつを公開するものとして私にはブログが適しているらしいということだ。アイデアも本のネタになることも公開したって問題はない。ここまでして自分を納得させる文章を書いてやっとブログを投稿する準備を始める。

 この文章は私の為の文章だ。まただめになったときに読み返すのかわからないが、今この状況から進むための助けになっていることは確かだ。文章を書くことは活力になる。これを公開することがそうなるかは知らないが、営業がへたくそな私がなんとかとりあえずやってみる一歩だ。